》を一人つれてのこのこと歩いています。道庵先生とだけでは、この土地の人にはよくわかるまいが、下谷《したや》の長者町へ行って十八文の先生といえば誰にもわかるのであります。
「先生、お薬礼《やくれい》はいくら差上げたらよろしゅうございましょう」と聞くと、「あ、十八文置いて行きな」と答える、それで十八文の先生、一名、安いお医者さんで有名なのであります。この十八文のためには、与八と組打ちまでした騒動があるのであります。お松なんぞもこの先生のお蔭で命を取留めたのでありました。その道庵先生が一僕を召連れて、ほくほくと伊勢参りなんぞと洒落《しゃれ》込んだのであります。
「仙公、今夜どこへ泊るべえな」
 道庵はお伴を振返って酒臭い息を吹きかけました。道庵先生が酒臭い息を吹きかけているから天下が泰平なのであります。
「そうですな、千束屋《ちづかや》か牛車楼《ぎゅうしゃろう》あたりへドンナものでげす」
 お伴の仙公は額を叩く。仙公という男は江戸から道庵先生がつれて来た、野幇間《のだいこ》とまではいかない代物《しろもの》であります。道庵先生はこの仙公がお気に入りというわけでもなんでもなく、伊勢参りに出かけたくなっている矢先へ、ぜひお伴を仰せつけられたいものでとか何とか言って来たものだから、よし、つれてってやるというわけで、引張って来たものであります。
「俺ゃ、そんなところはいやだ」
 道庵先生の駄々。
「お嫌いでげすか。先年はあすこで弥次郎兵衛喜多八の両君が、首尾よく大失敗をやらかして、みんごと江戸っ児の面《かお》へ泥を塗ってしまったところでげす、そこでこのたびは道庵先生と仙公とが相提携して、その名誉回復なぞはいかがでございますな、ぜっぴ[#「ぜっぴ」に傍点]お伴を致したいものでげす」
「弥次と喜多が器量を下げたのは、あすこかい。よし、そう聞いちゃ俺も道庵だ、奮発する、十両も奮発して大いに遊ぶ」
「それは頼もしいことで。しかし先生、十両とくぎって奮発なさるのがおかしゅうげすな、トテモ江戸っ児の腹を見せるんでげすから、百両とか千両とかおっしゃっていただきたいものでげすな」
「ばかを言え、俺は十八文の先生だ、勿体《もったい》なくってそんなに金が使えるか」
「これは恐れ入りました」
「十八文の先生の、俺は道庵だ……」
「困りましたな、先生、そう十八文十八文とおっしゃられたんでは、きまりが悪くっ
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