して中山殿の御跡《おんあと》をお慕い申してみたい者は、そのようになさるがよい、国に残る妻子眷族《さいしけんぞく》のことが気にかかるものあらば、それもまたお心任せ」
酒井賢二郎は一同を見渡して念を押すと、静まり返った中から、
「いかにも酒井氏の申さるること、道理至極、死すべき時に死せざれば死するに勝《まさ》る恥がある。今はとても中山殿のお跡を慕うこともなり難し、いわんやまた、いまさらに妻子眷族に未練《みれん》を残す者もあるまい、ここで腹を切るが最上の武士道と存ずる」
水野善之助というのがこう申し出でる。自然これが一同の意志を遺憾《いかん》なく代表したことになった時に、
「拙者一人だけは――」
ヒヤリと剃刀《かみそり》で撫でたような言葉。それはさきほどから隅の方に黙々としていた机竜之助の声でしたから、一同の眼先は箭《や》を合せたように竜之助の面《かお》に注ぐと、
「切腹は御免を蒙《こうむ》る――」
「何と言わしゃる」
「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って落ちてみるつもりじゃ」
「死にたくない?」
浪士たちの眼から電《いなずま》が発するようですけれど、竜之助の眼は少しく冴《さ》えているばかりで、その面は例の通り蒼白い。
「ふーん、死に怯《おく》れたな」
ほかの浪士は、憤激と軽蔑《けいべつ》の眼を合せて竜之助を見る。
「拙者は死にたくない」
竜之助は冷やかなもの。
「忠義を忘れたか!」
忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が最期《さいご》に似たりと浪士らは血を沸かせている間に、竜之助ばかりはどうしてもそんな気分になれないものと見えます。
「机氏」
酒井賢二郎は逸《はや》る他の連中を抑え、
「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより強《し》いて死を求むるものではない、しからばこれより落ちるなり、逃げるなり、お心任せになさるがよい、さてその他の諸君」
酒井はまた一座を見廻して、
「申し遺《のこ》すことなどもあらば、最後の思い出に書き給え」
彼等は紙と矢立《やたて》を持っていました。
もはや、机竜之助の方は誰も相手にしなかった。竜之助が、こんなふうにつむじ曲りの人間であることは、この連中がもうよく呑込んでいるものと見えて、一旦は憤激してみたけれど、今は取合いませんでした。
竜之助は黙って、自分だけは遺書《かきおき》もしなければ辞世もつくらず、介錯《かいしゃく》をしてやろうとも言わず、もとより頼もうと言う者もありませんでした。
そのうちに、余の十人は、それぞれ辞世の詩歌、妻子へ申し遺すことなどを書いてしまいました。
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水野善之助は、二の腕の創《きず》をよく結び直しながら、
「宮の御鎧《おんよろひ》に立つ所の矢|七筋《ななすぢ》、御頬先《おんほほさき》二の御腕《おんうで》二箇所突かれさせ給ひて、血の流るること滝の如し」
朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、
「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら大盃《おにさかづき》を三度傾けさせ給へば、木寺相模《きでらさがみ》、四尺三寸の太刀の鋒《きっさき》に敵の首をさし貫いて宮の御前に畏《かしこま》り……」
木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ跳《おど》り出でて、
「戈※[#「金+延」、第3水準1−93−16]剣戟《くわえんけんげき》を降らすこと電光の如くなり、盤石《ばんじゃく》岩をとばすこと春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅《しゅら》かれがために破らると……」
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大塔宮《だいとうのみや》の昔をしのぶにはちょうどよい土地である。あの時分以来、この十津川郷には南朝忠臣の霊気が残っているはずであります。
二
猟師の惣太は、薪《たきぎ》を取りに出るふりをしてこの小舎《こや》を逃げ出してしまいました。
十津川の岸へ出て一散《いっさん》に北へと走《は》せ下る。
「やれやれ怖ろしいことじゃ、命拾いをしたようなもの。しかしこうなってみると、怖《こわ》いところにまた有難いことがある、あれを藤堂様なり紀州様なりに訴人《そにん》をすれば、莫大《ばくだい》な御褒美《ごほうび》にありつける、占《し》め占め」
もう安心と思った時分に、惣太は汗を拭きながら独言《ひとりごと》を言いました。それでも足の方は休ませずに、なおも流れに沿うて急ぎ下ると忽《たちま》ち行手で人声がする。
「や、また来やがったぞ、待てよ、敵か味方か、ここへひとつ隠れて様子を見てやれ」
岩と木立の間へ惣太は素早《すばや》く身をひそませると、流れを上ってこちらへ来るのは、都合十人ほどの武士であって、その服装のいかめしいのを見ても落武者《おちむしゃ》でないことは確かです。
「宇津木氏、その机竜之助とやらは、日頃この天誅組の一味に気脈を通じていたような形跡がありましたかな」
「いや左様なことはありませぬ、聞けば江戸へ下る途中、伊賀の上野にて、これらの浪士の一行に加わり、それより吉野へ出で、いったん浪花《なにわ》へ入って、それからまた出直してこの旗上げに加わったように見えまする」
一行の中の大将分と見えるのと話をしているのは宇津木兵馬でありました。
藤堂の討手《うって》で藤井新八郎というのがこの大将分で、兵馬はその手に加わって、今この山奥深くたずね入り来《きた》ったのは、たしかに鷲家口から逃れた一隊の浪士の中に机竜之助がいると見定めたからであります。藤井新八郎は頷《うなず》いて、
「この山中へ追い込めばもはや袋の鼠である、いずれへ行っても紀州領、帰れば我々の追手が十重二十重《とえはたえ》、山中に永く迷いおれば食糧はなし」
こういったような話をしてこの一隊が、心して川の岸を進んで行った時に、
「申し上げます、もしあなた様方は紀州様でございますか、藤堂様でございますか、申し上げます」
岩蔭から転《ころ》がり出した猟師の惣太。一行は屹《きっ》と足をとどめて、従卒は鉄砲の筒を向けてみましたが、用心するほどの者ではない、賤《いや》しげな木樵《きこり》山がつの類《たぐい》がたった一人。
「その方は何者じゃ」
「猟師でございます、惣太という猟師でございますが、ただいま悪者を見つけましたから御注進申し上げます、ただいま、私共の山小舎《やまごや》へ都合十一人の浪人者が舞い込みましたのでございます」
「ナニ、十一人の浪人?」
「ええ、ただいま、酒を呑み、肉を食って休んでおります」
「よく訴人した、案内せよ」
惣太を先に打立たせ、やがてその山小舎のあたりへ来た時分に、前後の様子を篤《とく》と見定めた藤井新八郎は、
「惣太」
「へえ」
「気の毒だが、その方の小舎へ火をつけてくれまいか」
「焼くのでございますか」
「そうじゃ、あとで不服のないように普請《ふしん》をして取らせる」
「よろしゅうございます、焼きましょう」
「しからば、これを持って行け」
新八郎は、腰にさげたやや重味のある袋を出して惣太に取らせる。
「これは何でございます」
「それは火薬である、その方はそれを持って、なにげなき体《てい》で小舎へ帰れ、気取《けど》られぬように、小舎を締め切って程よいところから火を出せ、その火を合図に我々が取囲んで、一人も残さず搦《から》め取る」
「よろしゅうございます、やってみましょう、ずいぶんあぶない仕事ですが、なあに、やってやれないことはござんすまい」
落武者は十一人と数が知れても、それが死物狂《しにものぐる》いに荒《あば》れる時は危険の程度が測られない、新八郎が惣太に火薬を授けたのは、その辺の遠慮から出た計画と見える。
藤堂方の討手は小舎を遠巻きにしていると、惣太は心得て、火薬袋を腰にぶらさげて小舎へ戻って来たが、このとき、小舎の中はもう薄暗い。
「皆様方、帰って参りました」
戸をあけて中へ入ると、
「おお、猟師、どこへ行っていた」
「はい、米が切れたから里へ取りに参りました」
浪士らは、深くも惣太を怪しまぬようでした。惣太はおそるおそる炉の傍へ寄って、
「今、米を炊《た》いて上げましょうぞ、なんしろ鍋が二つしかございませんから、こいつを洗って、これでお米を炊くと致しましょう」
いま猪の肉を煮ていた鍋を惣太は取り下ろして、提げ出そうとする途端に、腰に下げていた、さっき新八郎から授けられた火薬袋の紐が解けて火薬はドサリとそこへ落ちました。
「猟師、何か落ちたぞ」
「へえ……」
惣太の唇の色が変ってしまいます、鍋を持った手がワナワナと顫《ふる》えます。
「これはその……」
鍋を下に置いて、あわててそれを拾い取ろうとする挙動があまりに仰山《ぎょうさん》なので、荷田重吉が不審に堪えず、
「それは何だ」
「これは――ゴウヤクでございます」
「ゴウヤクとは何だ」
「何でもございません」
拾い取ろうとする惣太の手首を荷田が押えて、
「ちょっと見せてくれ」
「ええ……御冗談《ごじょうだん》」
「貴様、まだ何か隠しているな、ゴウヤクとは何だ、出して見せろ」
荷田も、これが火薬袋とは知らないが、惣太の挙動があまり仰山なので、ついついそれを取ってみる気になると、惣太は面《かお》の色を失って荷田の手を押し払って、それを拾い取って懐中へ捻《ね》じ込もうとしますから、いよいよ嫌疑《けんぎ》が深くなるわけです。
「こりゃ猟師、貴様はただいまどこへ行った」
「里へ米を買いに」
「黙れ、この近いところに米を売るようなところはあるまい、貴様は訴人《そにん》に出かけたな、我々の所在《ありか》を敵の討手へ知らせに行ったのであろう」
「ど、どう致しまして」
「その袋が、いよいよ以て怪しい」
荷田は力を極《きわ》めて袋を引ったくる、惣太は力任せにそれをやるまじとする、その途端《とたん》にころがり出したのが炭団《たどん》ほどな火薬二個。
「やあ、これは火薬じゃ」
「おのれ!」
一人の浪士は抜打ちに惣太を斬ろうとする。惣太は絶体絶命で、眼の前に転がって来た火薬を一つ掴《つか》むや否や、燃え立っていた炉の中へスポッと抛《ほう》り込みました。
轟然《ごうぜん》たる爆発。鍋は飛び、炉は砕け、山小屋は寸裂する、十一人のうち、二人即死。面《かお》を半分焼け焦《こが》されたの、手の肉をもぎ取られたの、全身に大火傷《おおやけど》をしたの。肉が飛び血が流れ、唸《うめ》き苦しんで這《は》い廻る上に火がメラメラと燃え上りました。
「ソレ合図だ」
遠巻きにしていた藤堂の討手は、意外に早く火があがったのを怪しみながら走《は》せつける。
この場で即死した二人のほか、焼け爛《ただ》れて歩行の自由を失い、藤堂の手で搦《から》められたものが一人、あり合う俵や菰《こも》を引っかぶって逃げ出し、折からの闇に紛《まぎ》れて行方知れずになったものが七人。
しかし、このうち六人はその翌日《あくるひ》、紀州方面へ逃げて行くところを、紀州勢の見廻りに出会って山の中でつかまってしまいました。
十一人のうち、十人まではこんなことで運命が定まったに拘《かかわ》らず、どうなったかわからないのがたった一人、それがすなわち机竜之助でありました。
三
紀伊の国、竜神村の温泉場で今宵《こよい》は烈しく犬が吠《ほ》えます。
山村とは言いながら、客には慣れたはずのこの里で、こんなに犬の吠えるのは珍らしいことです。
時はもう秋に入るのであるから、爽《さわや》かなるはずであるべき天候が、まだなんとなく雲を持って、桶《おけ》の底のようなこの土地を、ひたひたと上から押してくるようなので、湯の客人もなんだか、近いうちに暴風雨《あらし》でもなければよいがと言っていました。
犬も、
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