を鞘《さや》に入れたが、おそらく血は刀に附く遑《いとま》がなかったろう――切ると一緒に高いところから足で蹴落《けおと》して(その証拠には、かすり疵《きず》がいくつもある)、下へ転《ころ》がって行く屍体の音を聞きながら、蚊をつぶしたほどにも思ってはいなかった――兵馬の眼には、斬った人の面影《おもかげ》がありありと浮ぶ。

         十二

 眼の前にあっても、時が来《きた》らねば会えません。竜之助と兵馬とは、山城、大和、伊賀、紀伊の四カ国を、あとになり、先になって、往《ゆ》きつ戻《もど》りつしましたけれど、とうとうそのいずれでも会うことができないのです。竜之助は敢《あえ》て兵馬を怖れて逃げ隠れているのではない。兵馬は目の先に近づいて、それでどうも刃《やいば》を合せることができないのです。
 今、ここに竜神村の災難、七兵衛やお松がどうしてここへ来るかを知らねばなりませんけれど、兵馬はそれを顧みている遑《いとま》がない。
 竜之助の落ちて行く方面は、日高川に沿うて四十余里の屈曲を塩屋の浦まで出て、船でどちらへ行くか、または高野領《こうやりょう》を経て西国筋《さいこくすじ》へでも落ちる
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