と風の騒ぐ音もする。
「さて、修験者殿……」
竜之助は、やや改まった声で、
「いつまでもこうして御厄介《ごやっかい》になってはおられぬ、拙者は立退こうと思う」
「待て待て、その眼を充分に癒《なお》してからにするがよいぞ」
「治《なお》るかよ、この眼が」
「治る、信心一つじゃ」
「うむ――」
竜之助は、また黙った。
「しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは憖《なま》じい治さんがよかろうと思う」
竜之助は独言《ひとりごと》のように言う、修験者はこれについて返事がない。竜之助が独言のように言った時は、修験者はもう護摩壇に上っていて、それを聞かなかったものらしい。
「眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」
竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。
心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと夢裡《ゆめ》に入る。
ちょうどこの時分は、金蔵とお豊も室町屋へ帰っていようし、宇津木兵馬は、お豊の言い分も肯《き》かず、このほとりへ上って来たはずであるが、雨に恐れて引返したことであろうと思われる。
竜之助は肱《ひじ》を枕に夢に入る――
「おお、何を泣いている、お前はどこの子じゃ」
いたいけな男の子、道の真中に立ち迷うて、さめざめと泣いているのを、竜之助は傍に寄って、その頭を撫《な》でながら、
「泣くでない、お前はよい子じゃ」
竜之助の眼はハッキリとこの子供を見ることができるのを、自分ながら不思議に堪えないで、
「もう、日も暮れる。さ、わしが送って行って上げる、お前の家はどこじゃ」
「坊には家がない……」
子供はしゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて言う。
「家がない? では、お父さんはどこにいる、父親は……」
「知らない……」
子供はやっぱり面《かお》を上げないのです。
「知らない? お母さんは、母親はどこにいる」
「知らない、知らない」
「はて、お前には、家もない、父も母もないのか」
竜之助は、この迷子《まいご》を、どのように扱うてよいのか当惑して、空《むな》しく頭を撫でながら、
「坊や、では、どうしてお前はここへ来た、誰につれられてここへ来た」
「知らない……」
「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、拙者《わし》が里まで連れて行って上げよう、さ、おじさんに抱かれてみろ」
「いやだ、おじさんは怖《こわ》い」
「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」
「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」
「嫌い? では誰がよいのじゃ」
「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」
「ナニ、与八さん?」
竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。
「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」
「坊の名は郁太郎《いくたろう》……」
「ナニ、郁太郎?」
竜之助は摺《す》り寄って、子供の面《かお》に当てた紅葉《もみじ》のような手を振り払ってその面を覗《のぞ》き込もうとすると、
「いや! いや!」
子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。
「お待ち……坊や、お待ち……」
竜之助はそのあとを追いかけて、
「郁太郎……お前の父親はここにいる」
竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、
「嘘《うそ》! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」
小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
憐《あわ》れむべし、この子、己《おの》れが実の親を厭《いと》うて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。
竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方《かた》を見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。
「おうい、郁坊やあい」
その声は田舎訛《いなかなま》りの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、
「与八さあん――」
父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐《なつ》かしさでこの太った男に抱きついてしまいました。
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
温かい手で、すぐ抱き取って、頬《ほお》ずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光《ごこう》がさして来るようです。泣いていた子供も晴々《はればれ》して、ふいとこち
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