崎という浪士が、寝ころんでいた自分の枕許《まくらもと》で見つけ出したのが貧乏徳利《びんぼうどくり》であります。
「やあ、それを見つけられてはたまりませんな」
「何だ、酒か」
 それだけは隠しておきたかった。惣太がいま猪の肉を煮ていたのは、実は取って置きのその濁酒《どぶろく》を一杯やりたかったからであります。肉の方は、いくらでも御用に立てるが、酒の方はかけ換えがないから、それを見つけ出された惣太は苦《にが》い面《かお》をしました。
「うむ、猟師、人が悪いぞ、これを隠して一人でこっそり飲もうなどは不届《ふとど》きだ……一升はしかと認めた、茶碗を出せ、さあ、おのおの」
 肉の煮える間、一升の濁酒は十一人の口を潤《うる》おしている。
 それを傍《はた》で見ている惣太の顔色はない――惣太が、こんな危ない時世に、山奥へわけ入って猛獣を追い廻しているのも、この一升が生命《いのち》なのであります。
 それをみすみす人に飲まれて、自分は指をくわえながら、料理方を承わっている辛《つら》さ口惜《くや》しさというものは容易なものではないのでした。
「猟師、猟師」
 肉の煮えた時分に惣太の姿が見えなくなっていました。
「猟師、どこへ行った」
 呼んでみたけれども返事がない、一同は少しばかり怪しんだけれども、さして気にも留めず、それから寄ってたかって猪の肉を突く。
「猟師はどこへ行った」
「逃げたかな」
「逃げたようじゃ、逃げて訴人《そにん》でもしおると大事じゃ」
「いいや、訴人したとて恐るるに足らん、藤堂の番所までは六里もあるだろう、ゆるゆる腹を拵《こしら》えて出立する暇は充分」
「よし十人二十人の討手が向うたからとて、かくの如く兵糧《ひょうろう》さえ充分なら、何の怖るることはない」
「とかく戦《いくさ》というものは、腹が減ってはいかん」
「古いけれども、それが動かざる道理」
「それにしても、中山侍従殿には首尾よく目的のところへお落ちなされたかな」
「こころもとないことじゃ」
「十津川を脱《ぬ》けて、あの釈迦《しゃか》ヶ岳《たけ》の裏手から間道《かんどう》を通り、吉野川の上流にあたる和田村というに泊ったのが十九日の夜であった」
「その通り」
「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の領袖《りょうしゅう》は、あれから宿駕籠《しゅくかご》で鷲家《わしや》村まで行った、それから伊勢路へ走ると
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