に、温泉宿とお客とは大迷惑で、入浴中を引き出されたり寝込みを叩き起されたり――それが引取ってしまうと、大風の吹いたあとのように、胸を撫《な》で卸《おろ》しながら床について、やがて、犬の吠えるのも静まり返った時分のことであります。室町屋の帳場で帳合《ちょうあい》をしていたこの家の若い女房――まだ眉を落さないが、よく見れば、それは、二月ほど前に、初瀬河原から藍玉屋の金蔵につれられて逃げたお豊であることは意外のようで、実は意外でも何でもありません。してみれば、ここはいつぞや金蔵が話した通り、その親たちがはじめた温泉宿である。金蔵は今も見えないし、役人の来た時も出て来なかったから、たぶん不在《るす》なのでありましょう。
 お豊がこうして帳場へ納まっているからには、もう相場がきまったものと見てよろしい――お豊は帳合をしてしまうと、行燈《あんどん》の火影《ほかげ》に疲れた眼をやって、ホッと息をつきましたが、すぐにまた帳場のわきへ置いた人相書に眼がつきます。さきの役人が置いて行った人相書――もし、これに似た客が来たら遠慮なく申し出でろ、人違いでも咎《とが》めはないが、届けを怠ると重い罪だと厳《きび》しく申し渡されたものであります。ざっと見て捨てておいたのを、仕事が済んで、また取り上げて、はじめから読んでみます。
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「年齢三十三四――
痩形《やせがた》の方、身の丈《たけ》尋常、
顔色蒼白く、
鼻筋通り、
眼は長く切れて……白き光あり……」
お豊はハッとしたのでありましたが、
「甲源一刀流の達人――」
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「あ!」
 人相書を持った手が顫《ふる》えたようでしたが、さきに飛ばして読んだ名前のところへ、ひたと眼が舞いもどる。
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「元新撰組――机竜之助」
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 机竜之助……これでよかった。違う。しかし気にかかるは竜という文字……お豊の胸には急に熱鉄が流れるのでありました。
 また犬が吠えて、この家の前で足音が止まる。
 いま締めたばかりの表の戸をトントンと叩いて、
「もしもし、室町屋さん」
「はい」
 お豊は返事をする。
「済みません、夜更けになって」
 殿貝《とのがい》というこの温泉村の世話役の声でありますから、
「ただいまあけますから」
 あいにく誰もいなかったから、お豊が立って戸をあけると、殿貝老
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