はここに立っている。
「金蔵さん、お前は助かりましたか」
お豊は逃げることもできないので、やっとこう言ってみますと、
「ああ、助かりました。あの時、針ヶ別所の山の中で、鍛冶倉《かじくら》の奴にひどい目に遭《あ》って、首へ細引《ほそびき》を捲《ま》きつけられましたがな、わしはまた、鍛冶倉を山刀で無暗《むやみ》に突き立てて突き殺しましたよ。わしも一旦は縊《くび》り殺されたのですがね、しばらくすると息を吹き返しましたよ。誰か知らん、首に捲きつけた細引をといてくれた人があったのでね。やれ嬉《うれ》しやと小舎《こや》へ這《は》い込んで見ると、お豊さん、お前の姿は見えないや……」
金蔵は中腰《ちゅうごし》になって、お豊の前で、あの時の物語をはじめます。
「見れば鍛冶倉の奴は傍で死んでいるし、それではお豊さん、お前が逃げる時に、わしの首から細引をといて行ってくれたのかと思った時は、わしは嬉しかったよ」
「あの、それは……」
「それだけでも、わしはお前さんの親切が嬉しくって、嬉しくって。あれからわしは谷を這い廻ってやっと里へ出て、惣太《そうた》が家へ二日ばかりかくまってもらって、それから身体《からだ》もすっかり快《よ》くなったからね、わしはお前、こんなふうに薬売りの真似をしてね……どこへ行くものか、この界隈《かいわい》を夕方になるとぶらついて、お前の様子を見て廻っていたのだよ、どうか、お前に一目、会いたいと思ってね」
「まあ……」
「お前さんが、旅の人に助けられたことも、薬屋へ送り届けられたことも、薬屋で養生をしてもとの身体になったことも、直ぐわかりましたよ。だからわしはお前さんの家へ忍び込んで、お前さんを奪い出そうとこう思ったがね、荒っぽいことをする前に、一応お前さんに直接《じか》に会って、わしの心の丈《たけ》をよく聞いてもらった上のことにしようと、毎日毎日、お前さんをつけ覘《ねら》っていたが、お前さんはまるきり外出をなさらぬ。いよいよ今晩こそと、思い込んだ矢先、お前さんは大急ぎで二階から下りて、植田のお陣屋の方へ行きましたね、占めたとわしはあの時から、お前さんのあとをつき通しで、ここまで来たのですよ」
ああ、どこまで執念深《しゅうねんぶか》い男であろうとお豊は身慄《みぶる》いを止めることができません。
「金蔵さん、お前のお心は有難いけれども、どうぞ堪忍《かんにん》して下さ
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