を明かした、が、百八|煩悩《ぼんのう》を払うというなる初瀬《はつせ》の寺の夜もすがらの鐘の音も、竜之助が尽きせぬ業障《ごうしょう》の闇に届かなかった。迷いを持って籠堂に入り、迷いをもって籠堂を出た竜之助は、長谷の町に来て、ふとよいことを聞いた。
これから程遠からぬ三輪の町に植田丹後守という社家《しゃけ》がある――武術を好んでことのほか旅の人を愛する、そこへ行ってごらんなさいと、長谷の町の町はずれで、井戸の水を無心しながら、このあたりに武術家はないかと、それとなく竜之助が尋ねた時に煙草を刻《きざ》んでいた百姓が教えてくれた。竜之助は、ともかくもその植田丹後守なる三輪大明神の社家を訪ねてみる気になって、ここまでやって来たものです。
教えられた通りに来て見ると、これは思ったより宏大《こうだい》な構えである。小さな大名、少なくとも三千石以上の暮らし向きに見える。竜之助は入り兼ねていささか躊躇《ちゅうちょ》した。
というのは、自分のこの姿が、いまさらに気恥かしくなったからです。このなりで玄関へかかったところで、誰が武術修行者として受取ってくれるものか、きわめて情け深い人で、いくらかの草鞋銭《わらじせん》を持たして体《てい》よく追っ払うが関の山、まかり間違えば、浮浪人として突き出される。
いったん竜之助は通り過ごして若宮の方へ行き、また引返したが、別に妙案とてあるべきはずがない。
「頼む――」
思いきって、そのまま玄関からおとなう。
「どーれ」
十八九の青年が現われて来て、竜之助を見る、その物腰《ものごし》が武術家仕込みらしく、竜之助の風采《ふうさい》に多少の怪しみの色はあっても侮《あなど》りの気色《けしき》が乏しいから、
「御主人は御在宅か。拙者は仔細《しさい》あって姓名はここに申し難《がた》けれど、京都をのがれて、旅に悩む者。御高名をお慕い申して……」
「心得てござる、暫時《ざんじ》これにお控え下さい」
青年の呑込《のみこ》みぶりは頼もしい。竜之助はしばらく待っていると青年は再び現われて、
「いざ、お通り下され、ただいま洗足《せんそく》を差上げるでござりましょう」
案ずるより産《う》むが安い。さすがの竜之助もその心置きなき主人の気質がしのばれて、この時ばかりは涙のこぼれるほど嬉《うれ》しかった。
四
植田丹後守には子というものがない、
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