ります。さてはこの人も自分と同じく、つれなき世上の波に揉《も》まれ行く身であるよ。
「それはまあ、おかわいそうに。そのお子さんはさぞ会いたくていらっしゃるでしょうに」
「左様、年のゆかない子供の身の上というものは、どこにいても思いやられるでな」
「左様でございますとも。せめてお母さんでもおありなさることならば、いくらか御心配も薄うございましょうが、お一人だけでは……」
「ナニ、親はなくとも子は育つというから、まあ深くは心配せぬけれども、道を歩いても、その年ぐらいの子供を見かけると、ついどうも思い出される、ハハ」
 竜之助は淋しく笑う。
「ほんとに御心配でございましょう。そのお子さんはおいくつ……男のお子さんでございますか」
「数え年で四つ、左様、男の子じゃ」
「お母さんもさだめて、草葉《くさば》の蔭とやらで、お心残りでございましょう。御病気でおなくなりになったのでございますか」
「病気ではない、自分の我儘《わがまま》から死んだのじゃ」
「我儘から……」
 お豊は竜之助の荒切《あらぎ》りにして投げ出すような返答で、取りつき場のないように、言いかけた言葉を噤《つぐ》んでいると、
「いや、そんな愚痴《ぐち》は聞いても話しても由《よし》ないことじゃ」
 竜之助は、団扇をとってその墨絵をじっと見つめている。
 曾《かつ》て、島原の角屋《すみや》で、お松が竜之助の傍に引きつけられているうちに、その身辺からものすごい雲がむらむらと湧き立つように見えて、ゾクゾクと居ても立ってもいられないほど怖《こわ》くなったことがあります。今、幽霊も遊びに出ようとする夏の夕べを背景に、蒼白い沈んだ面の竜之助を、お豊がこちらから見る時に、この人の身のまわりには、やはり何かついて廻っているものがある。
 大気がにわかに蒸してきた。さっきから飲んでいた三輪のうま酒の酔いがこの時に発したのか、竜之助は、ふいと面を上げると、蒼白い面の眼のふちだけに、ホンノリと桜が浮いている。
「お豊どの、そなたは酒を上らぬか、三輪の酒はよい酒じゃ」
「いいえ、わたしはいけませぬが、お酌《しゃく》ならば……」
 お豊も自ら怪しむほどに言葉が砕けてきた。
 蒸してきた空気のために、太鼓の音も泥をかき廻すようで、竜之助もお豊も何かの力で強く押されているようです。
 そうは言ったけれど、竜之助は再び酒杯《さかずき》を手に取ろうとは
前へ 次へ
全58ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング