名になったのはその後であると――かの万葉に謡《うた》われし、
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うま酒を三輪の祝《はふり》のいはふ杉
 てふりし罪か君にあひがたき
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とある――また古事記の祭神の子が活玉依姫《いくたまよりひめ》に通《かよ》ったとある――甘美にして古雅な味が古くから湛《たた》えられているということは、三輪のうま酒の誇りであった。
 竜之助は、そんな考えで飲んでいるのではない、舌ざわりの、とろりとして、含んでいるうちに珠玉《たま》の溶けてゆくような気持を喜んで、一杯、一杯と傾けている――蚊遣火《かやりび》の烟《けむり》が前栽《せんざい》から横に靡《なび》き、縦に上るのを、じっと見ている様子は、なんのことはない、蚊遣火を肴《さかな》にしているようなものです。
「誰か湯に入っているな、お早どのかな」
 湯殿で湯の音がする。廊下をずっと突き当ると、鍵《かぎ》の手《て》に廻ったところに物置と背中合せに湯殿がある、それは女たちの入る湯殿である。いつも、こんな時には留守居役の老女中、お早婆さんが、居睡《いねむ》り半分、仕舞湯《しまいゆ》に浸《つか》っているはずである。
「ウム、太鼓の音がするな、里神楽《さとかぐら》の太鼓――子供の時には、あの音にどのくらい心を躍《おど》らせたことであろう」
 笛と太鼓の音は、すぐ前の竹藪《たけやぶ》にひびいて遠音《とおね》ながら手にとるようです。竜之助は、それから沈吟して、盃をふくんでいると、庭先を向うの椿《つばき》の大樹の下から、白地の浴衣《ゆかた》がけで、ちらと姿を見せたものがあります。
「婆さんか」
 竜之助は見咎《みとが》めて呼んでみますと、
「いいえ、わたくしでございます」
「ああ、あの、お豊どのか」
「はい」
 お豊は、この家に預けられています。竜之助はそのことを知っていた。お互いに同じ家に来《きた》り合せたことをその時から知ってはいたが、今日で五日ほど、人の手前を憚《はばか》ってまだ親しくは面《かお》も合せず口も利かずにいた。
「そなた様もお留守居でござったか、まあ、ここへお掛けなされ」
 竜之助は、自分の持っていた団扇《うちわ》で縁の一端を押えます。
「有難う存じます、こんな失礼な容姿《なり》で……」
 いま湯の音を立てていたのは、この女であった。湯あがりに、ちょっと身じまいをして、寛《くつろ》いだ浴衣
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