ために蛙を叩きつけられたような目に会い、幸い泥田であったとはいえ、手練《しゅれん》の人に如法《にょほう》に投げられたのですから体《たい》の当りが手強《てごわ》い。
 痛みと、怒りと、口惜しさで、その夜中から金蔵は歯噛《はが》みをなして唸《うな》り立てます。
「覚えてやがれ、このごろ来た御陣屋の痩浪人《やせろうにん》に違いない」
 金蔵の親爺の金六と女房のお民とは非常な子煩悩《こぼんのう》でありました。一人子の病み出したのを気にして枕許《まくらもと》につききり、医者よ薬よと騒いでいましたが、今ようやく寝静まった我が子の面《かお》を、三つ児の寝息でも窺《うかが》うように覗《のぞ》きながら、
「ねえ、あなた、今ではこの子も自暴《やけ》になっているのでございますよ」
「そうだ、そうに違いない。それにしても、あの薬屋の奴は情を知らぬ奴だ」
「ほんとにそうでございますよ、あんな心中の片割れ者なんぞ、誰が見向きもするものか、この子が好いたらしいというからこそ、人を頼んだり、直接《じか》にかけ合ったり、下手《したで》に出ればいい気になって勿体《もったい》をつけてさ、それがためにこの子が焦《じ》れ出して、こんな病気になるのもほんとに無理がありませんよ」
「困ったものだ――」
 子に甘い親二人は、わが子には少しも非難の言葉を出さず、なにか、やっぱり人を怨《うら》んでいるようである。
 これはたあいもないことです。金蔵はお豊を見染めて、それを嫁に貰ってくれねば生きてはいないと、親たちに拗《す》ねて見せる――そうして親をさんざんに骨を折らせたが、思うようにいかない。今夜も、そっと垣根を越えて、お豊のいる離れ座敷まで忍んで行こうとしたところを、竜之助に引き落されて投げられた。
 まことにばかげた話であるけれど、世に怖《おそ》るべきは賢明な人の優良な計画だけではない、執念《しゅうねん》の一つは賢愚不肖《けんぐふしょう》となく、こじれると悪い業《わざ》をします。

         六

 お豊は、月のうち三度は三輪の神杉《かみすぎ》を拝みに行く。
 三輪の大明神には、鳥居と楼門と拝殿だけあって本社というものがない。古典学者に言わせると、万葉集には「神社」と書いて「モリ」と読ませる。建築術のなかった昔にも神道はあった、樹を植えて神を祀《まつ》ったのがすなわち神社である――この故に三輪の神杉には神
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