わしの生国《しょうごく》まで見抜きなさるお前さんは――」
「わしかね、わしも実は関東さ、常州水戸……ではない土浦生れが流れ流れて、花の都で女子供を相手にこんな商売をしていますよ。失礼、一献《ひとつ》」
 猪口《ちょく》を差出した手を見ると、竹刀《しない》だこ[#「だこ」に傍点]。七兵衛なにげなくそれを受けて、
「これはこれは」

 小間物屋は七兵衛と一献《いっこん》を取交《とりかわ》して出て行ってしまったあとで、七兵衛はようやく飯を食いはじめながら、
「親方、その南部屋敷てえのは、いったい何だね」
「南部屋敷というのは、その壬生のお地蔵様の前にある大きなお邸、いま浪人衆が集まっておいでなさるあれでございます」
「お地蔵様の前……」
「黒い御門があるでございます」
「なるほど」
 七兵衛が目星《めぼし》をつけておいたのはその邸。
「で、その浪人衆というのは」
「近ごろ関東からお上りになりました新撰組と申しまして、つまり、このごろ諸国から上って参る浪人をつかまえる浪人衆でございます」
「浪人をつかまえる浪人?」
「でございますから、肩ひじの、こんなに張った、腕っ節の、こんなに太い、豪傑揃《ごうけつぞろ》いでございます。わしどもも、その浪人衆の御贔屓《ごひいき》を受けているのでございますよ」
「で、その頭《かしら》は何という方ですかね」
「お頭は芹沢様に、近藤様」
「芹沢様に近藤様……お大名ですかね」
「なに、お大名でも旗本でもありません、どちらも浪人衆で」
「お名前は、何とおっしゃる」
「芹沢様の方が鴨」
「鴨ですって? 妙なお名前ですね」
「全く妙なお名前ですよ」
「それでは、近藤様の方はあひる[#「あひる」に傍点]とでも申しますかね」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません、そんなことが浪人衆の耳に入ると、斬られちまいますぜ。近藤様の方は、だいぶ威勢のいいお名前だ、イサミ、勇とおっしゃいます」
「なるほど、イサミ……待て待て……近藤勇――お名前を聞いている。それで何かい、親方、その芹沢様と近藤様と、お二人が頭で、浪人衆がどのくらいおいでなさるかね」
「そうさね、どのくらいと言って、わしらには確《しか》とわかりませんが、ちょっと見たところで七八十人、それにあちらこちらに出張所というものもあるようでござんすから、みんなではなかなかの人数でございましょう」
「お扶持《ふち》はどこから出るんだね」
「会津様から出るのでございます。そのほかにもだいぶ収入《みいり》がおありなさるようで、茶屋や揚屋で、あのお仲間がお使いなさるのは大したもの、景気が素敵《すてき》によいのでございます」
「うむ――そうかね」
 話はここで途切れて、どこかの寺院《てら》の鐘が鳴る。
「はてな」
「四ツでございます」
 七兵衛は飯を食い終って、代を払い、この店を出て壬生村の闇《やみ》に消える。
 七兵衛は、地上を縦に走ると共に、横に走ることもできたという。横に走るとは、塀なり垣根なりを足場として、地上とは身を平行にして或る距離を疾走《しっそう》する。また、逆に天地返しの歩き方というのをやる。天地返しとは、天井へ足をつけて、頭を地上にぶらさげて歩く、壁を直角にかけ上る気合で天井を一歩きして来るものであろう。
 七兵衛は子供の頃から、屋《や》の棟《むね》を歩くのが好きであった。自分の家の屋の棟を歩き終ると、隣りの屋根へ飛び移って、それからそれと宿《しゅく》の土を踏まずに歩いていた。長い竿《さお》で追いかけられる、その竿をくぐり抜けて、木の枝に飛びつき、塀の峰を走る。八方から竿でつきかけて、ついに足を払い得たものもなかったそうです。
 月の宵《よい》、星の夜、真暗《まっくら》な闇の晩、飄々《ひょうひょう》として七兵衛が、この屋の棟遊びをやらかすことがある。秩父颪《ちちぶおろし》の烈しい晩など、サーッと軒を払って散る淅瀝《せきれき》の声が止むと、乾き切った杉の皮がサラサラと鳴る。ト、ト、トと、なずなを刻《きざ》むような音を屋根裏で聞くと、老人は眉をひそめて、
「七公、また悪戯《いたずら》をはじめやがったな」
 七兵衛は、地上の物をとることが上手《じょうず》なように、水の中の物をもよく探ることができた。
 七兵衛が、多摩川の岸の岩の上に立って、水の中を見ながら、それそこには鮎《あゆ》がいる、山魚《やまめ》がいる、かじか[#「かじか」に傍点]がいる、はや[#「はや」に傍点]がいる、おこぜ[#「おこぜ」に傍点]がいる、ぎんぎょ[#「ぎんぎょ」に傍点]がいる。それそっちへ行った、それこっちへ来たと独言《ひとりごと》を言っている。誰が見てもそんなものは一つも見えないのに、熟練な漁師が見てさえも見えないのに、岩の上からおりて来て、手を或る石の下へ入れると、その言った通りの方角で、言っ
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