らいの振合《ふりあ》いをした嬢様がある。七兵衛はお松の侍女時代を知らなかったから、その変ったことに目を驚かす。
「久しいことでございました」
 お松はハラハラと涙。
「大きくなったなあ、美しいものになったなあ」
 七兵衛の眼もなんとなしに潤《うるお》うてきます。
「もう、この世ではお眼にかかれないかと思いました」
「ばかなことを言うな……なんの百里や二百里の道」
 七兵衛も悲しくなる、お松も悲しくなる。
 七兵衛の足では、百里や二百里の道はなんでもないが、お松の身が、この百里を隔てた西の都に来るまでには、容易ならぬ行路の悩みがある。
 お松は、しばらく袂を面《かお》に押し当てたまま、しゃくり上げていましたが、
「いつ、こちらへお着きになりまして」
「今日来たよ」
「ようここが知れましたなあ」
「うむ、ちょっとしたひっかかりで聞き込んだから、直ぐに飛んで来た。来て見れば、お前の身の上も、思ったより無事で、こうすんなり[#「すんなり」に傍点]会えようとは思わなかった。そうして、わしは、お前をつれて江戸へ帰るつもりで来るには……来たが……今も、ここでおちおち考えてみれば、帰ったとてお前の頼《たよ》るところもないようではあるし、わしも思うように世話をして上げるわけにはいかない。縁あってこちらに来たものだから、いっそこちらで暮すもよいかも知れぬ。どうだ、お前の考えは。遠慮なく言ってごらん」
「有難う存じます、おじさん、どこへ行きましても、運の悪いものは悪いものでございますね、わたしは、もう諦《あきら》めました」
「どう諦めた」
「江戸へ帰りたいとも思わず、ここで一生を送りたいとも思いませぬ……運には勝てませぬから、何事にも逆《さから》わず身を任せて行くつもりでございます」
 七兵衛は腕を組んで暫く考え、
「それでは……お前は傾城《けいせい》になるつもりかえ」
「この月中《つきうち》に、あのお雪様の妹分として、つとめをするように、きまってあるのでござんすから……わたしもその気になってしまいました」
 七兵衛は、考え込んだ上で、
「そう腹がきまれば、それでいいようなものだが、わしに言わせると、それでは済まぬ、わしはお前を遊女傾城にしたくはないというものだ」
「けれども、おじさん……」
「わしは、お前を救い出しに来たはずなのだ、なんとしても一旦はお前の身受けをせにゃならぬ、それから先はお前の心任《こころまか》せ、江戸へ帰ろうと、こちらに留まろうと、文句は言わないつもりだが」
「身受けと申しましても、おじさん……」
「お金のことなら心配しなくてもいい、それはいくらかかろうとも承知の上だ」
「有難うございます」
 お松は、また涙を拭く。身受けをされて自由になることが、お松にとって嬉しくないことはない、もし帰るべき家があり、手をとって泣き合うべき親兄弟があるならば一層のこと。七兵衛にしても、この娘をつれて帰って、引合せてやる縁者《えんじゃ》があるとか、思い合う男に添わせてやるとかいう的《あて》があるならば、張合いがあるべきところだけれども、これを伯母のお滝に返してやろうか、または妻恋坂のお師匠様に預けようか――危ない危ない、ここに置くよりも危ない。そんなら、自分が引取って世話をしてやろうか――いつ首が飛ぶか知れない身、なお危ない危ない。
「おじさん、わたしは、もし身受けをしていただくようになりますれば、あの沢井という山の中へ引込んで暮します」
「なんだ、沢井へ……沢井の何というところへ」
「あの万年橋という橋の下に、水車の小屋がありますそうな、そこでお米を搗《つ》いたり、粉を振《ふる》ったりして稼《かせ》ぐつもりでございます」
「万年橋の水車で……あそこに知人《しりびと》でもあるのかな」
「あい、約束した人が……約束と申しますと、異《い》なことに聞えましょうけれど、わたしを親身《しんみ》にしてくれた人が待っているはずでございます」
 この女を待っているというのは何者、約束した人とは誰。はたしてそんな人があるならば頼もしい。

         十

 京に多き物、寺、女、雪駄直《せったなお》し。少なき物、侍、酒屋、けんどん屋、願人云々《がんにんうんぬん》。それがこのごろはどこへ行っても、肩ひじ怒らした侍ばかり、多いものの二番目に数えられた女の影がかえって道の通りには甚だ少ない。
 島原の廓《くるわ》、一貫町を出てから七兵衛は胸算用《むなざんよう》をはじめました。
 お松を身受けするのに、費用が四百両の頭を出る、百両を手金《てきん》に置いて、あとの三百五十両、それをこれから工面《くめん》にかかる、猶予《ゆうよ》を三日間とっておいた。
 千本通《せんぼんどおり》で暮六《くれむ》ツが鳴る。
 道すがら町と人家の形勢を見て、そのつもりもなく壬生《みぶ》の地
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