っぱらったって商売に抜目《ぬけめ》はねえ、早く十八文おいて帰れ」
「それじゃ済まねえ」
「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」
「それは先生が馬鹿だ、半月も診《み》てもらったり薬を飲ましてもらったりして、そのおかげさまで病人がすっかり癒《なお》って、そうしてお礼が十八文で帰れるか、よく考えてごらんなさい」
「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」
「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」
「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」
「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」
「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」
「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」
 与八はムキになって怒り出しました。
「俺《おら》、人の物を塵《ちり》一本でも盗んだ覚えはねえ、飛んでもねえことを言わねえ方がよかんべえ」
「盗んだに違えねえ」
 道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、
「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺《おら》が面《かお》が立たねえ」
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
 与八は飛びついて道庵の胸倉《むなぐら》を取りますと、
「この馬鹿野郎、わしに喧嘩《けんか》をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」
 道庵先生も与八の頭へ噛《かじ》りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。
 与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振《むしゃぶ》りついてみましたけれども、もともと悪気《わるげ》があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲《なぐ》ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。
 与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

         七

 与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
 呼んでみたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
 これも中ではことり[#「ことり」に傍点]とも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
 さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転《ひっこし》をしておしまいじゃないか」
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆《むすめしゅ》は駕籠でお出かけじゃないか」
「ちっとも知らねえ、俺《おら》そんなことはちっとも知らねえ」
 与八は面《かお》の色を変えて唇を顫《ふる》わせる。
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
 与八は呆《あき》れてホロホロと涙をこぼし、
「四谷のどこへ引越したんべえ」
 声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散《いちもくさん》に表の方へ走り出しました。
 与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
 これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘《ねら》うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。
「ああ兵馬さん」
 せわしい中で立ち止まった与八。

         八

 夜《よ》が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛《とりまぎ》れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感《かん》が嵩《こう》じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過《あやまち》がなかったと立派な口が利《き》けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによ
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