の山田久州男という女形であって、河井と喜多村はその頃は上方へでも行っていたか出ていなかった、赤樫満枝を女団十郎と称ばれた粂八《くめはち》が新派へ加入して守住月華といってつとめていた、我輩が高田を発見したのは貫一が恋を呪《のろ》うて遂に高利貸となって社会から指弾され旧友に殴打されようとしてすさまじい反抗に生きている処へフラリと旧友のr尾譲介がやって来て声涙共に下りながら旧友、間貫一《はざまかんいち》を面罵するところから始まったのだ、我輩は無条件に無意識にこの役とこの俳優にグングン惹《ひ》き入れられてしまった、それから次に、芝の山内でお宮の車に曳かれやがてそのお宮を捕えて変節を責める処に至って全く最高潮に達してしまった、余は実にそれまでこんな強い感銘を受けた俳優と場面を見たことがない、その後も今日まで見たことはないと云ってよろしい、高田実の荒尾譲介なるものはその当時よりは遙に肥えた今の余輩の観劇眼をもってしても絶品であるに相違ない、あれは正に空前絶後といってよろしい、我輩の高田実崇拝はその時から始まってその後本当に血の出るような小遣を節約しては彼の芝居を見たものだ、そうして愈々《いよいよ》彼が非凡なる一代の名優であることに随喜渇仰した次第である、併し高田の有ゆる演出のうち矢張り荒尾譲介が最も勝れていたと思う、それは原作そのものが優れていたのと相俟《あいま》って現われた結果である、当時紅葉山人もまだ達者でいて、あれを一見して聞きしに勝る名優だと折紙をつけたということが何かの新聞に出ていたが、事実あれならさしもむずかしやの紅葉山人も不足が云えなかったろうと、我輩も想像している。
今の幸四郎、当時青年俳優中の粋、高麗蔵《こまぞう》もあれに感服して、高田さんにあの譲介につき合ってもらって、自分が貫一をやりたいと云ったというような事も聞いている、その他数知れず演出した高田の芸品のうち何れも彼が絶倫非凡の芸風を示さぬものはないけれども、荒尾譲介ほどのものが産み出せないのは脚本そのもののレベルが高田の持つもののレベルと合奏しきれなかった点もあろうと思う、後の脚本は何れも高田の特徴を認めてそれを仕活すよう活かすようにと企てただけに聊か追従の気味がないではない、紅葉山人の独創と高田実の技量とが名人と名人との兼ね合いであるだけにそこに大きな融合が認められたわけでもあると思われる。
さて我輩は斯《こ》ういう次第で高田実信者であり(年少客気のみならず今日でもあれほどの俳優は無いと信じている)、その俳優にまた駈け出しの一青年である我輩の作物が演って貰えるということは本懐の至りでもあり光栄の至りとでも云わなければならなかったのだ、伊原君は偶然口利きになったけれども高田がどうして我輩の作物にそれほど興味を持っていたのか分らないようであった、また伊原君という人はなかなか利口な常識的な人だから高田のような天才肌の芸風よりは伊井のような人気のあるものを推賞していたようだった、本来座興的にそんな話はあってもものにはなるまいと誰も彼も見ていたのに、高田の殊の外の乗気にずんずん話が進むのに驚異の念を持っていたようだ、然し我輩に云わせると見ず知らずの一介の青年たる我輩の作に当時劇界を二分して新派の王者の地位にいた高田実が異常の注目を払っていたというのは必ずしも偶然とは思われない理由がある、それは高田崇拝の余り余輩は二三の雑誌にその感想を投書して載せられたことがある、それ等が高田の眼に触れて好感を呼びさまされていた素地があった所以《ゆえん》だと思う、そこで話が大いに進んでとうとうこれを通し狂言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞《しま》の羽織のようなじみな身なりをしていた。
当時の松竹というものは関西では既に覇《は》を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而《しか》もどの興行も当ったというためしを聞かない、流石《さすが》の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それと共にこんどの「高野の義人」もやっぱりいけないだろう、それというのが新派が今まで髷物《まげもの》をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの、それに作者は一向聞えた人ではなし――というのが一般の定評で、伊原君なども現にその説の是認者であったようだ、ところが蓋《ふた》を明けて見ると舞台が活気横溢、出て来る人物が何れも従来の型外れ、見物はかなり面喰ったようだ、そうして連日の満員続き首尾よく大当りに当ったのだ、松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、坊主が好きだというような評判がその後ずっともてはやされたものだ、そんなようなわけで我輩は今日まで大谷君に逢うと旧友に逢うといったような気持もするのである、併し、この一挙は成功したが、それから我輩は劇というものは離れて見ているもので、自分の如きものが接近すべきものではないということと、それから劇評なんぞというものが如何にも興のさめたものだという感じに打たれて演劇熱が急転直下して冷めてしまった、新派もその後はやっぱり脚本に恵まれないで、当時の諸星が皆不遇のうちに空しく材能を抱いて落ちて行ったのだ。
我輩はその後|数多《あまた》の小説を書いたし劇界からも可なりそれが興行方を懇請されたが一切断って劇と関係せず、大菩薩峠が出た後と雖《いえど》も劇の方は見向きもしなかったがそのうちに沢正事件というのが起って来た、此奴はかなりもつれたが未だにその真相を知っているものはあるまいから余り好ましくはないが次に一通り経過を書いて置いて見よう。
演劇と我(2)
自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れるべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々《いよいよ》歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々《われわれ》は更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死《ひんし》の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時|若《も》し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧《おさ》え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのワまに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家《こうずか》の間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も予《かね》てこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンを演《や》ったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸
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