松岡は大いに横田をつかまえていたらしかった、それと同時に都新聞の背後にも横田系即ち政友系が大いに進出して来た模様であった、しかし社中は従来の歴史を重んじて都新聞を政友系とすることには極力反対していたようであった、これには横田の勢力も松岡の才気も施す術《すべ》が無かったようだ、しかし小生としては此度の社の変遷にも何か重大な責任の一部分がありそうな気がしてたまらないからその何れにも関せず、ここで清算しなければならぬと考えたから、当時松岡君がわざわざやって来て是非若いものだけであの新聞をやりたいから踏み止まってくれと説得して来たのは必ずしも儀礼ばかりではない事実上、若いものを主として主力を政友系に置いて大いに発展して見るつもりであったろうと思う、しかし余は全く辞退して前社長楠本男、前主筆田川氏に殉じたとは云わないが、その時代で一時期を画して後任者の経営のもとには全く関係のない身となった、松岡君も我輩の意を諒してその清算に同意してくれた。
そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したこと
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