に書きは書いたが、当人も自信がなく、俳優の幹部も余り気のりがしなかったようだ、そこへ余輩の「高野の義人」に眼をつけたのが高田実であった、何かのはずみに社中の伊原青々園氏に向ってこれを演《や》りたいものだと高田が云い出した、ということを余輩が伊原氏から直接に聞いたのが縁の始りであった。
これより先き我輩の高田実に傾倒するは古いものであった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の歴史だが、当時は東京の三大劇場の一つで今の歌右衛門、当時の芝翫《しかん》が歌舞伎座に反旗を飜してここに立て籠《こも》ったこともあり、また我輩も先代左団次一座に先代猿之助だの今の幸四郎の青年時代の染五郎等の活躍を見たこともある、この劇場で偶然余は新派大合同劇を見た、芸題は「金色夜叉《こんじきやしゃ》」で登場俳優は今云ったような面触《かおぶれ》に中野信近などいったようなのも入ってその頃のオール新派と云ってもよろしい、余輩も新派の芝居というものの代表的なやつを纏《まと》めて見たのは多分これが初めてであったろうと思う年齢は十四五であったと思う、当時神田の三崎町には元寇《げんこう》の役《えき》か何かのパノラマ館があったり、女役者一座の三崎座という小劇場があったり、それからその向い側に川上音次郎が独力で拵えはしたが借金のカタになったりして因縁附の「改良座」という洋式まがいの劇場もあってそこで裁判劇などを見たこともあったが役者の名前などは一切記憶していない、そこで新派劇というものを紀元的に見たのはこの東京座の「金色夜叉」をもって最初とする、たしかカルタ会の場面からなのだが何だかしまりのない舞台面で、書生ッポや若い娘共がガヤガヤ騒いだり、キャーキャー云ったりしている、歌舞伎劇のクラシカルな劇に幼少から見慣れていた眼にはあんまりぞっとしなかったのでこの暇と金をもって他の立派な歌舞伎劇を見ればよかったにと聊《いささ》か後悔しながらそれでも我慢して見て行くうちにだんだん面白くなって行った、当時我輩は金色夜叉をまだ書物では読んでいなかったと思うがその内容は或人から聞いて読みたいと心掛けていて果さず、劇で見る方が先きになったようなあんばいであった、併し、進んで行くうちに漸く感興を催して来て遂に高田実の荒尾譲介にぶっつかってしまったのだ、貫一は藤沢浅次郎であった、お宮は高田門下の山田久州男という女形であって、河井と喜多村はその頃は上方へでも行っていたか出ていなかった、赤樫満枝を女団十郎と称ばれた粂八《くめはち》が新派へ加入して守住月華といってつとめていた、我輩が高田を発見したのは貫一が恋を呪《のろ》うて遂に高利貸となって社会から指弾され旧友に殴打されようとしてすさまじい反抗に生きている処へフラリと旧友のr尾譲介がやって来て声涙共に下りながら旧友、間貫一《はざまかんいち》を面罵するところから始まったのだ、我輩は無条件に無意識にこの役とこの俳優にグングン惹《ひ》き入れられてしまった、それから次に、芝の山内でお宮の車に曳かれやがてそのお宮を捕えて変節を責める処に至って全く最高潮に達してしまった、余は実にそれまでこんな強い感銘を受けた俳優と場面を見たことがない、その後も今日まで見たことはないと云ってよろしい、高田実の荒尾譲介なるものはその当時よりは遙に肥えた今の余輩の観劇眼をもってしても絶品であるに相違ない、あれは正に空前絶後といってよろしい、我輩の高田実崇拝はその時から始まってその後本当に血の出るような小遣を節約しては彼の芝居を見たものだ、そうして愈々《いよいよ》彼が非凡なる一代の名優であることに随喜渇仰した次第である、併し高田の有ゆる演出のうち矢張り荒尾譲介が最も勝れていたと思う、それは原作そのものが優れていたのと相俟《あいま》って現われた結果である、当時紅葉山人もまだ達者でいて、あれを一見して聞きしに勝る名優だと折紙をつけたということが何かの新聞に出ていたが、事実あれならさしもむずかしやの紅葉山人も不足が云えなかったろうと、我輩も想像している。
今の幸四郎、当時青年俳優中の粋、高麗蔵《こまぞう》もあれに感服して、高田さんにあの譲介につき合ってもらって、自分が貫一をやりたいと云ったというような事も聞いている、その他数知れず演出した高田の芸品のうち何れも彼が絶倫非凡の芸風を示さぬものはないけれども、荒尾譲介ほどのものが産み出せないのは脚本そのもののレベルが高田の持つもののレベルと合奏しきれなかった点もあろうと思う、後の脚本は何れも高田の特徴を認めてそれを仕活すよう活かすようにと企てただけに聊か追従の気味がないではない、紅葉山人の独創と高田実の技量とが名人と名人との兼ね合いであるだけにそこに大きな融合が認められたわけでもあると思われる。
さて
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