生前身後の事
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瘠我慢《やせがまん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その他門下|各々《おのおの》英材が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]った

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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 小生も本年数え年五十になった、少年時代には四十五十といえばもうとてもおじいさんのように思われたが、自分が経来って見るとその時分の子供心と大した変らない、ちっとも年をとった気にはなれない、故人の詩などを見ると四十五十になってそろそろ悲観しかけた調子が随分現われて来るけれども、余はちっとも自分では老いたりという気がしないのみならず、それからそれへと仕事が出て来てどうしてどうしてこれからが本当の仕事ではないか、と、思われる事ばかりだ、瘠我慢《やせがまん》にいうのではない、自分は五十になって老いたりという気がしないのみか若いという気もしない、子供の時と特別に変ったようにも思われない、今の自分としては殆んど年齢を超越してしまっている。
 これは一つは自分が未《いま》だ嘗《かつ》て家庭というものを持たず、自分の肉体の分身に対する愛情という経験が無いというのも一つの理由であるかもしれない、何れにしても自分はまだ死に直面しているという気分は毛頭ないけれども、ここに五十になった紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念の意味で少々死後のことを書いて置いて万々一の用心にし、心のこりを少しでも少なくして置きたいものと思うことは無用でもあるまい。
 利休が旺《さか》んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々《いよいよ》世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。
 そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。

 第一 自分の著作は今も全部統一されているといってよろしいから、このままでいつまでも独立統一した出版所の手によって進行せしめて行きたい、それより来る収利については相当に分配して行きたいものだ、必ずしも親類身寄というものでなくてもよろしい、最もよく著者の著作を理解するものによりて保護存養せしめて貰って行けば結構だが、遠い将来のことは是非もないが、国家が著作権或は登録権を保護する限りそうして行って貰いたいものである。

 第二 著作に伴ういろいろの興行権は著者一代限り、如何なる事情ありとも他に許可しないこと、出版は直接に著作の精神を読んで貰うことが出来るが、興行複製となると著者の目《ま》のあたりの監督がない限り著作の精神とまるっきり変ったものが出来る憂いがあるから、これは出来得る限りの手段を尽して永久に謝絶禁断してしまいたい事。

 第三 余の蔵書遺物等はすべて大菩薩峠紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念館に永久に保存して貰うのが当然だがそれには紀念館を法人にするとか、多くの維持資本を置くとかしなければならないし、それが出来たところで日本の国情では個人や民衆の力ではなかなか管理が六カ敷かろうから、もし紀念館も解散が有効であると見るならば相当の人の評議をもって解散をしても差支えないこと、解散の評議員としては隣人座談会へ常に出席して下さる諸君をお頼み申すがよろしいと思う。

 第四 蔵書は紀念館に保存するが不安ならば一まとめにして帝国図書館に寄附して貰いたい、帝国図書館で相当の好意を以て受付けてくれれば結構だが、受付けてくれない時は誰か有志家に一纏《ひとまと》めにして引取って貰うこと、その場合は外国人でも苦しくない、それも然るべき人が見出せない時はすっかり売り払って差支えないこと。

 第五 大菩薩峠をはじめ著者の自筆原稿も右に準じて処分をするがよろしいこと。

 第六 かりに若《も》し小生に多少の動産不動産があったとしてその場合は半額を余の親族のもので縁の順序によって分つがよろしい、その半額は可然《しかるべく》公共的の事業に使用するがよろしい、尚お配分方法に就いて余が書きのこして置いた時はそれに従って
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