無く、前人の未だ曾《かつ》て夢想しなかったほどの大果報もおのずからその間に生れて来ないとも限らないのである。
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中里生|曰《いわ》く
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったり誣《し》いたりすることは決してない、その辺を御承知の上で御一読を願いたい。(後略)
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大菩薩峠新聞掲載史
時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
大菩薩峠の胚芽《はいが》は余が幼少時代から存していた処であるが、その構想は明治の末であり、そのはじめて発表されたのは大正―年―月―日の都新聞に始まるのである。
当時余は都新聞の一社員であった、都新聞へ入社したのは当時の主筆田川大吉郎氏に拾われたので、新聞の持主は楠本正敏|男《だん》であり、余が二十二歳の時であった。
田川氏が余輩を拾ったのは、小説家として採用するつもりではなく、寧《むし》ろ同氏の政治的社会的方面に助力の出来るように、養成されるつもりであったかも知れないが、頑鈍な小生は甚だ融通が利かなくってその方へ向かなかった、今ならば田川さんを助けて政治界へも進出するような余裕もあったかもしれないが、其の当時は、生活と精進とに一杯で、あたら田川さんの期待に背《そむ》いてしまったらしい。
そうして偶然にも予想外の小説の方面に進出し、まあ、相当の成功を見るようになったのは、社中の誰も彼もが皆んな一奇とするところであったが、その辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作の著手といえばもっと古いのだが発表は右の通り、余が二十九歳の時である、当時余は都新聞の一記者として働いていて傍ら小説を書いたのである、小説を書くと多少の特別の手当があり、小説の著作権から来るところの興行の収入、それから※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵木版付で地方新聞へ転載掲載料等の別収入もあったものである、併し余は演劇映画の上演はその頃から絶対謝絶していたから小
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