の時であった。
渋沢栄一翁の姿は時々見かけた、固《もと》よりこれも親しくは何の交渉も無いけれど、後にその令息の一人秀雄氏と帝劇の関係で知り合いになってから渋沢一家が大菩薩峠の熱心な愛読者であるということを聞いていた、老子爵も都新聞に連載時代から愛読して居られたような形蹟がある、これはまだ歴史の人ではないが岩崎小弥太男もまた都新聞時代から大菩薩の愛読者であったと想像の出来ない事もない。
明治天皇の御英姿を拝する機会は得られなかったが、大正天皇の行幸を拝したことは一二回ある。
さて、少くとも吾れと同じ世紀の間に生きていた因縁のある歴史的或は世間的に知名の方々に対しては略《ほぼ》右のようなものであり、尚多少の遺漏があるかも知れないが、それは追って思いつき次第補充するとして次には今日まで共にこの世界に生きて来た有縁無縁の人でさまで有名でもなく、歴史にも世間にも印象を残すのなんのという人ではなく最も平凡に生き平凡に死んだ人の思い出を一つ書いて置きたいのであるが、それはまた少し後廻しにして、この機会に昨今、最も身辺の問題となっている大菩薩峠の出版史というようなのを少し述べて置きたいと思う、それも細かく書くと容易ならぬものだからそれは後日の事として概略だけを書いて置きたい。
新聞に発表したことは別として、書物として初めてこれを世に出したのは大正―年―月―日玉流堂発行の和装日本紙本「甲源一刀流の巻」を最初とする。
今でこそ大菩薩には一々何の巻何の巻と名を与えているが、最初都新聞に連載した時は、この巻々の名は無かったものである、それをこの出版に際して第一冊に「甲源一刀流の巻」の名を与えたのが例になったのである、この初版の出版ぶりはかなり原始的なものであった、これより先き自分は弟に本郷の蓬莱町へ玉流堂というささやかな書店を開かせた、同時に自分は活字道楽をはじめた、この活字道楽というのは今日までも自分にとって一つの癌《がん》のようなもので、かなり苦しめられつつあって、容易に縁の切れない道楽の一つであるが、本来どうか自分は一つ印刷所を持ちたい、それは最少限度のものであってよろしい、兎に角半紙一枚刷りなりとも拵《こしら》えて、それを知己友人に配るだけの設備でもよいから欲しい、ということは兼ねての念願であった、そうしてまず築地の活版であったか秀英舎であったかの売店へ行って、一千字ば
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