を引き揚げてしまった。
後藤新平子を見たのも熱海であった、或晩散歩をしていると、書生に提灯《ちょうちん》を持たせて黒い長いマントを着た長身の男が一人坂の途中に立って海の方を眺めていたが、通りかかってよく見ると、それは新聞の写真顔で見覚えのある後藤――その時は子爵であった、またこの人は東京の帝劇の食堂などでも見かけたことがある、非常な政界の人気男であったが、晩年は振わなかった、しかし余輩ははじめからこの人は余り好きではなかった。
犬養木堂は議会で見ただけであった、右掌を腮《あご》に、臂《ひじ》を卓上に左の手をズボンのかくしに突込んで、瘠《や》せこけたからだに眼を光らせて、馬鹿にしきった形で議会を見おろしていた処がなかなかよかった。
それから全く風采を見ない人であるけれども、同時代在野の政治家として、星亨ほどの人物は無いと思う、しかし余は星が殺された時分には島田三郎の信者であって、島田の攻撃ぶりと伊庭《いば》の非常手段に非常なる共鳴をもっていたので、星の偉さが分ったのはずっと後のこと、実際政党人として一人をもって全藩閥を敵に廻して戦える度胸を備えた大物であったと思わずにはいられない、殊に政党の振わざる今日に於て星を思うこと痛切なるものがある、余の生れた三多摩地方は皆殆んど星の党であるのに、余は幼少より少しもそんな感化も影響も受けず、東京へ飛び出しても島田三郎等の説に共鳴して星を憎んだものだが、今日に至ると全く一変している。
それから、学術界の方で出京早々十四五歳の時、加藤弘之博士の講演を聞いたことがある、所は帝国教育会の講堂、加藤博士は監獄教誨師問題について当時各宗教家間に軋轢《あつれき》があったことからこの際何の宗教にも属していない儒教の人を用いたらよかろうというような説であったと覚えている、その前席であったか後席であったか、片山潜氏の演説があったことを覚えている、片山氏の演説ではじめて自分は「ツラスト」という言葉を覚えた。
さて、宗教界に於ては仏教の釈宗演《しゃくそうえん》、南天棒あたりの提唱は聞いた、キリスト教会では植村正久、内村鑑三あたりの先生とは親しく座談もし、数回教えも受けた。
次は、文学界の方面だが、自分は尾崎紅葉も知らない、正岡子規も知らない、夏目漱石も知らない、樋口一葉も知らない、二葉亭四迷も知らない、国木田独歩も知らない、人間としては何等
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