るに充分である。この迷信が商売の繁昌に有力な処から博士の粗製濫造大売出しが行われる――科学が迷信を助長するのではない人間の本能が迷信なくしては生きられないのではないか」
「さればこそ――科学の必要と権威がいよいよ主張されなければならぬ」
「科学の権威――というが、その権威にもおのずから権限のあることを自覚しなければなりますまい、権限を知る科学者は自分の立場に忠実であると共に、その知られざる世界に対しては無限に謙遜でなければ居られますまい」
「ノーノー、今に科学者がすべてを征服するの時が来ります、宗教の時代は過ぎました、有《あら》ゆる宗教は皆迷信を要素とするのに科学の勝利のみが着々と現実の文明を形成《かたちづく》る。詩は空想の産物で迷信とは隣りづき合いをしている、科学は既に完全に陸上を征服し今や空飛ぶ小鳥の力を奪い水を潜る魚の力を奪い、やがて有ゆるものを征服するの使命を持つ――」
 この一行は今混乱状態となって栗の大木の下で、ごちゃごちゃと中休をしながら相手次第に火花を散して誰一人仲裁の任に当ろうとする者もない。
「科学が完全に陸上を征服したと広言するならば、聞いてみましょう、地上僅か三万|呎《フィート》のヒマラヤの頂はまだ科学の力で究められてはいないはず。地球の海底の最も低い処も南北の両端もまだ科学の力では開かれてはいないはず、つまり科学の力はまだ天上地下僅々五|哩《マイル》の範囲にも達してはいない、肺病も癩病もまだ科学の力では癒《なお》らない、我々は大震災の来ることを予知することが出来ないのみか――その日、その日の天候でさえも科学の力を信頼するわけには行かないではないか、といって僕は科学を否定する者でも軽蔑するものでもありませんがね」
 会社員風の青年がいいました。
「科学科学というけれども由来、人生に対する偉大なる貢献を遂げた発明家はいわゆる学者の中から出ないで無学者の中から出たのが不思議ではありませんか――ワットにしてもエジソンにしても」
「しかし彼らはプロフェサアでなかっただけで事実は偉大なる科学者です、そこで我々は科学の偉力を信じないわけには行かないが科学の傲慢を許すにはまだ早いようです」
 穏健なる紳士がこういいながら立ち上ると一同も立ち上って歩き出したが足よりも口の方が盛んである。
「ナポレオンが露西亜《ロシア》を敗走したのを単に寒気の襲来と防寒具の不
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