「峠」という字
中里介山
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)境部《さかいべ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−
「峠」という字は日本の国字である。日本にも神代から独得の日本文字があったということだが、それは史的確証が無い、人文史上日本の文字は、支那から伝えられたものであって、普通それを漢字と云っているが、日本で創製した文字もある、片仮名や平仮名はそれであって、寧ろ国字といえば、この仮名文字こそ国字であるが、普通に国字といえば、仮名を称せずして、日本製の漢字を謂《い》うのである。
この日本製の漢字が、新たに造られたというのは天武天皇の十一年に(昭和十年より千二百四十三年以前)境部《さかいべ》の連石積《むらじいわつみ》等《ら》に命じて新字一部四十四巻を造らしめられたというのが日本書紀に記されていることを典拠としなければならぬ。右の新国字の数と種とは、今正確に分類出来ないけれども、新井白石の同文通巻によれば「峠」の如きも、当《まさ》にその時代に造らしめられた国字の一つに相違ない。
本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。
[#ここから2字下げ]
按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処、嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。
[#ここで字下げ終わり]
これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く、領《えり》とか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパスとかサミットとかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
和語の「たうげ」は「たむけ」だという説がある、人が旅して、越し方と行く末の中道に立って、そうして、越し方をなつかしみ、行く末を祈る為に、手向《たむ》けをする、祈願をする、回向《えこう》をする――といったような縹渺たる旅情である。
山があり上[#「上」に丸傍点]があり下[#「下」に丸傍点]があり、その中間に立つ地点を峠と呼ぶことに於て、さまざまの象徴が見出される、上[#「上」に丸傍点]通下[#「下」に丸傍点]達の聖賢の要路であり、上[#「上」に丸傍点]
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング