。それは不規則な連想ではあったが、彼の胸を目がけて、死の烙印をおしつけてくるものであった。彼はそれから逃れることを考えなければならない。
「死?」
「死!」
「偽《いつわり》ならぬ真実!」と、東洋の詩人が謳《うた》ったそのことが、彼には賞牌《しょうはい》の浮彫でも見るように、手探りの敏感さで、自分の皮膚へ感じられたように思えた。その賞牌の表面へ堅牢に浮き上っている線! 彼には、その線を指先ででも触れながら楽しむように、言葉で呼ぶ死というものが大へん興味をもって眺められた。しか彼は自分へ向って、その死という連続的の真実を見たことがなかったとは言わなかった。その死の自存を感じなかったとは言わなかった。また屍灰から生れ屍灰のなかへ没して行くその死を知らなかったとは言わなかった。そうして彼には、その死というものが一種の生物で、しかも死自身はまさしく殺生鬼であると思えた。この殺生鬼は、空想から現実へ、足音もなく忍び寄ってくる。この死は、大股に濶歩《かっぽ》して、あらゆるところを歩き廻る。死を背負うた人間。この殺生鬼は、彼の胸のなかへ、真昼の幽霊のように、姿もなく巣食うてしまった。
「死を珍客として歓待する者が、この世に幾人あるか。」
彼は底知れない神秘な真実に逐いまくられて、不意にこんなことを呟いた。彼は思うさま、自分の声を揺って笑ってみようと決心[#「決心」に傍点]したのであった。――この瞬間、何ものかの啜泣《すすりな》く響が、彼の耳もとをとぎれとぎれに過ぎていた。そうして屋外は恐らく雪が降っているのであろう、さらさら、さらさらと軽いこまかい音がしている。どっしりした空気その物の重みのような淋しい沈黙が、彼の体全体で感じられた。軽く緻《こまや》かに雪が降っているのであろう。そうしてそのなかをとぎれとぎれの啜泣が伴奏している。彼は耳をそばたてた。ものの十秒とも経たないうちにその啜泣は波打つ歔欷《きょき》と変った。――慟哭《どうこく》の早瀬となった。――
「お柳……?」
彼は自分の声でびっくりした。
「お柳が泣いている……おれに部屋を借してくれたお柳が泣いている……」
―――――
彼の部屋(土蔵)にただ一ヶ所より外《ほか》はない窓から流れこむ日光は、彼の顔へ軽くじゃれついていた。彼は日脚の擽《くすぐ》りで睡《ねむ》りを醒《さま》した。しかし悲しい荷物を背負って旅歩きしている人のように、浅い眠りより外は眠ったことのない彼には、未だに夢のなかに取残されているように感じられた。そうしてあの出来事は、恍惚《こうこつ》として醒めきらないこの苦い快感のなかに、未だに織りこまれている。彼はお柳のことを考えはじめた。彼は怪しく織りこまれたその糸口を手探りはじめた。そうして彼は夢のなかのことのようなその空想によって、しばらくの間を楽もうとした。彼は自分の空想のなかで、お柳とともに話し合うてみたいのであった。――殆《ほと》んど話と言っては互に語り合ったことのないお柳と。――否、彼は自分を奈落の底へ陥れた、彼自身の胸のなかの最初の対象であった相手と話し合ってみたいのであった。そのために彼は自分とその女との間へお柳をさしはさんでみなければならなかった。それが嬉しかった。一層はっきりと彼の瞳へ映ってくるものがあった。十年も以前、彼はその女を愛した。――恋した。しかしその女は、花火のような愛情の閃《ひらめ》きを残して、その家族とともに遠くへ旅立った。彼女の離別の言葉は、彼を悲しませた。そうして間もなくして、その言葉は、彼女のこの世への死別の言葉となってしまった。――その時彼女は一人の少女の母親であったと、少年であった彼は聞いた。彼は花嫁姿の彼女を目前に見たように感じた。その彼の幻想に映じた彼女の姿は、ただ光り輝く眸《まな》ざしが深い印象を残した。そうしてその後、彼は夢のなかで、彼女に逢った。しかしその時、彼女は、その姿の消える瞬間に、朱の色をした顔へ形の大きな真白な眸を現わした。――彼は自分自身が怕《おそ》ろしいと思った。
そうしてその後、彼の生活は一匹の虫の生活にも値しなくなった。彼は地上を這い廻った。彼は一種の処女機械のような成人になった。極く短い期間のうちに、彼の躯は陰鬱と恐怖と悲嘆との雲に覆《おお》われた。彼は純粋と情熱とを失った。――少年の智慧を失った。――疑惑は彼を捉えた。――そうして彼は、悲しくも彼自身を見失ってしまった。
―――――
お柳が現れた。――あの女と全き「同一性」を持ったお柳は、忽然《こつぜん》として彼の目前を過ぎて行った。――お柳があの女の子としたなら。――年限から言ってもそんなことはあり得ない。――彼女自身?――彼は刻み込むような戦慄を感じた。――お柳とあの女との物柔かな声……蒼白い顔……頬の線……鼻そのものが宿す深い影……冷たく輝く愛情の窓である眼……額《ひたい》……これらの相似はこの世にあり得る暗合であるかも知れない……しかしその表情?――彼はいま寂然としている自分の心へ言いかけてみた。答えはなかった。彼は冬の日の淡い日光の直射から自分の顔をそむけてこの穏和に幸福なしかし淋しくないこともない思い出とその幻想とに耽っていた。彼には自分が何ものかに唆《そその》かされているという考えが湧いて来た。そうして彼の敵が目には見えないところへ伏線を敷いて待伏せしているようにさえ感じられた。しかも彼女という肉体のない幽霊を使って、彼の蜂の巣のように破れた脳を煽動《せんどう》しているようにさえ思えた。そうしてお柳という女を使って、彼女の肉体を再現せしめている。彼は怕ろしいと思った。
「悪魔!」
彼は思いがけない驚愕に襲われたかのように、床を蹴って立ち上った。彼は獰悪に歪んだ顔を打ちふりながら戸外へ出た。彼は眩暈《げんうん》を覚えた。彼は跛のように蹌踉《よろめ》いた。彼の眸ははじけるように疼《うず》いた。物の色別も出来なかった。頭は叩かれているように痛んだ。そうして最初に彼の眸へ射流れてきたものは、浅く雪に蔽《おお》われた日蔭の屋根であった。彼はまぶしく天空を見上げた。溜息が漏《も》れた。汚く湿った土壌は、遊糸《かげろう》のような日光を貪《むさぼ》り吸うていた。水蒸気がゆらめいていた。
彼は思い出したようにお柳の家の方を見た。お柳は台所の隅で、立ち悩むままに顔を蔽わずにまた泣きじゃくっていた。お柳は昨夜から泣きつづけていたのであったろうか。
彼は再び部屋へ戻らなければならなかった。彼はお柳へ向けて湧きはじめた思いやりを殺さなければならなかった。彼は彼女を恐れた。
―――――
「お柳は祖父《じじ》さまが死んだので泣いてばかり居ります。」
その日の夕方、彼は井戸端の会話の一節に、こう言うている老婦の言葉を聞いた。
お柳の祖父? 彼はついぞその人を見かけなかった。
「永く床についていた人であろう?」
彼はふと自分の故郷の言葉で、死の意味を現わす言葉を無意識に呟いた。
「床?」
彼は再びこう呟いて、自分自身を顧みた。そうして彼は彼女の祖父の死よりも、彼女の悲観にも増して、この床と言う言葉に悩まされた。彼は自分の躯が、裂け、破れ、乱れ散るように、悩乱した。そうして彼は、自分が昼も夜も弁《わきま》えずに床に横わっていることを怕れはじめた。
「死ぬぞ! おれは死ぬぞ!」
彼は死期の間に迫って来ているかのように叫んだ。そうして俺はこの「死」を嚥下《えんか》したかのように、――それは精神を錯乱させながら、徐《おもむ》ろに生物の生命を毒殺するアルカロイドを嚥《の》み込んだかのように、感じさえした。否、彼はこの言葉を自分の敵の毒薬と思った。彼はその敵がこの毒薬を、無理無体に自分の体へ注ぎこんだようにさえ考えた。
―――――
お柳の祖父の葬式がすんで、二十八時間経過した。お柳の姿は、不慮の神隠《かみかくし》に会ったかのように、その家には見られなかった。
彼は破れた土蔵の立退を申込まれた。それは命ぜられたと同じことであった。彼は怒った。彼は胸を戦《おのの》かせた。一言の返答も出来なかった。しかし彼はついに一両日の猶予を請うて、黒皮カバンを抱えたその男を帰した。
その夜、彼は何処に入口があるのか解らない宿を訪ねた。その途中、彼にはあの葬儀社の黒|斑《ぶち》の猫も、あの警官の眼も気にはかからなかった。彼はそれほど急いでもいた。そうして彼の内心で強く大きく振子を振っているものは、「床」というただ一語であった。この一語は、絶えず憤恨と憎悪と復讐との重々しい身振りを繰返していた。
*
彼は再び下宿生活をはじめた。新鮮な感興は湧かなかった。彼は日夜巻煙草を楽んだ――彼の手の指の内側は、黄褐色の脂で爛《ただ》れてしまった――指の爪は、宝石ででもあるかのようにセピア色に輝きはじめた。そうして彼の胃は、彼を憎み嫌うかのように自ら損じはじめた。
―――――
「おれはおれの躯を愛しそこねた……何もかも最後に近づいた……悪口の矢をたてられ……誹謗の疵痕《きずあと》……悪感情の悪戯《いたずら》……侮辱と意地悪……譏誚《きしょう》……嘲笑と挑戦……嫉妬?……嫉妬!……復讐……おれはおれの躯を愛しそこなった……」
彼が自分へ向って呟く小言は、日に日に同じことを幾回でも繰返すようになった。ただ口に言うより外の言葉は知らない小児ででもあるかの様に――
―――――
*
「きょうはやめる。」
「どうしてですか。」
「それでは……君の言いなりでは、物の道理に合わない……」
彼は言い切った。
ものの二時間も費して、さんざんに取散らかした書籍をかたづけようともせずに、古本屋の主人は帰った。
彼はきょう古本屋の主人を呼び、書籍全部を売却する考えであった。そうして彼はその金で何処へか旅行するつもりであった。ところが彼には古本屋の主人の言うことが一一癪に触った。本屋は流行の本ででもなければ価値がないと思い込んでいる。この売れゆきのことは別としても、書物を手に持ったか持たぬさきに、直ぐ無造作にそれを投げ出す本屋のしうち[#「しうち」に傍点]に、彼は腹をたてた。彼は内心怒った。彼にはその様子が見ていられなかった。ちょうどそれは指一本ずつ切って捨てられるような苦痛であった。それに三十前後のその主人は、一ことごとに変に語尾を長く引きながら、へ、へ、へと笑う。その笑いを飲料物のように飲みこんでから、にやりと顔全体で笑う。反古紙《ほごがみ》のような顔。彼はその顔に嫌悪を催した。大方はこんなことで彼は一切その申出を受けつけなかった。そうして彼は肉眼には見えないものの声に耳を傾けた。
「君はおれを忘れたのか――
「それは忘恩というものだ――
「おれは十分君を憎む――
「それはおれを愚弄したことになる罰だ――
「おれは十分君を憎む――
「おれは冷たい吹息を吹きかけられたところで、決して曇るようなものでないからね……ま、君の燃えかけた蝋燭のような心を憎む――
「おれは懇願するのではない――
「君の態度はよくないと忠言する――
「壁の表にぶらさがっている時計へ向って欠伸《あくび》ばかりしている君は、くたびれて飛べなくなった鳥のようなものだね――」
取り散らかされた書物は、一一彼へ話しかけていた。彼は途方に暮れた。そうしてそれぞれの声は、ちょうど同一の音調を打ちつづけて、何処まででも進んで行くいろいろのキイででもあるかのように、それぞれのおしゃべりをつづけていた。そうして彼は、人間の音声を聴くことを奪われた永遠の島のなかの人のように人間の言葉を聴き得なくなった。人間の言葉を忘れてしまった。
*
或日――
親友の青沼白心は、突然にひょっこり現われた猫のように、彼の下宿を訪ねた。親友は大へん落着いた調子で話しはじめた。しかし彼には、親友の喋《しゃべ》っていることが一体何ごとであるか少しも飲みこめなかった。
「で、君は是非とも浦和博士に面会してみるのだね――」
いつの間にか彼の耳はこんな言葉を捉えていた。
「浦和博士?」
彼は彼等の会
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