身のドッペルゲンゲルであった。そしておれは、おれ自身の分身どもがつけていた、あらゆる仮面を見たのだ。そこにはどれほど沢山のものが明滅していたことであろう。嫉妬、陰謀、嘲笑、復讐、侮辱、猜疑、竊盗心、その他あらゆる悪が横行したのだ。あらゆる仮面。……
―――――
しかしいま、彼は孤独であった。彼は自分の友を感じていたであろうか? 彼はただ一人であった。彼は自分のドッペルゲンゲルさえ失っていた。彼はただ一人であった。彼は鉛のように重い頭を枕へおしつけていた。
彼は何ということもなしに、「おれはただ一人だ!」という感じを深くした。彼は半ば恐る恐るこの言葉を幾回か口へ出した。この言葉ははっきりしていた――この言葉は氷のように冷かであった――この言葉はしずかにじっと彼自身の眸を※[#「目+嬪のつくり」、209−下−5]《みつ》めていた――この言葉は瞬間的の有頂天と少しの変りもなく単純であった――この言葉は一という基数で代表されるものであった。
彼は冷く溶けた鉛を嚥下《えんか》したかのように感じた。彼はすさまじくも寂しかった。
「お母あさん!」
突然、彼はひょっくり物を言いかけて、彼の目前にはいない自分の母親を呼んだ。
*
ここで筆を擱く。――
これは私の友人A・Kが、M――脳病院へ入院するようになったそれまでの断片的物語である。気の毒なA・Kは、つい先日院内で死去した。
[#ここから1字下げ]
おれは夢と現実とを分つことが出来ない。のみならず、何処に現実がはじまり、何処に夢が定まるか分らない。それを決定することが出来ないのだ。クラリモンドに愛された僧侶……(以下十数字不明)……詩人たちが謳《うた》う人生の滓《おり》のなかにあって。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]一人の男 A・K
彼は右に再録した文面を、その病院の部屋の壁へ乱雑に書き遺して置いた。
彼の病名は、そこの医者が私に教えてくれたことに間違いなければ、AMENTIA というのである。
底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「改造」改造社
1911(明治44)年5月
初出:「改造」改造社
1911(明治44)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※文中の「〜〜〜〜」は底本では繋がった波線です。
入力:土屋隆
校正:山本弘子
2008年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全23ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング