の恐ろしくこけた男、あの瞼の垂れ下った男は、一たい誰であったろうか。一たい何処《どこ》から現れて何処へ消えて行ったのであろうか。こう考えると、彼は自分を嘲弄《ちょうろう》した自分の敵のように、彼自身を嘲弄してみたくなった。
 しかし彼は真面目に考えてみなければならなかった――あの蒼ざめていじけきった醜い男は、一たい何者であったろうか。彼自身の敵であったろうか。しかしどうみたところで、あの男は彼自身によく酷似していた。それならあの男は、彼自分のドッペルゲンゲルであったろうか。それにしても、彼は現在離魂病をわずらっているであろうか。兎《と》も角《かく》、あの男は、一たい何の目的で、あの場へ現れたのであろうか。彼を苦しめるためにか。小児を殺す目的であの場へ現れ、その罪を彼へなすりつけるためにか。それならそれは彼の敵の仕業であるに違いない。――こう考えながらも、彼は彼女の後へついて、彼女の家まで行った。彼女の家は、彼の夢とは多少の相違があったにしても――そこは屑物屋ではなかったが――略《ほぼ》相似た様子だった。玄関のない出入口を持っていた。彼女は彼が無断で他人の家へ近づくのを咎《とが》めはしなかった。彼女は彼を振り返ってみた。うちみたところその顔は、十七八にも見えたが、その眸《まな》ざしは小児らしく悲しそうに見えた。そうしてその飾りけのない眸は、見栄えはしなかったが、どことなく気品のある彼女の顔につりあっていた。この様子は真直ぐに彼自身の胸へひびいて泌《し》みこんで来た。
 彼は彼女の様子を覗《うかが》いながら、とっつきの障子の隙間《すきま》からそっと内のなかを窺《うかが》ってみた。その上り口から直ぐの薄暗い部屋には、人の動く気配がしたと思うと、力のない咳が彼の耳をコホンコホンと打った。
「姉さん!」
 彼女は床のなかの人を呼びかけて、抱いている小児を、その床のなかへしずかに押しこんでやった。
「部屋を借して下さいませんか。」
 突然彼は言った。彼は自分のうわべ[#「うわべ」に傍点]を隠さなければならなかった。彼は彼女に対して興味以上の何ものかを感じていた。それは疲れ切った夢の滓《おり》であったかも知れない。彼はこんな滓のようなものにさえ縋《すが》らなければ生きてはいられなかったのであろうか。彼女は当惑した様子で前掛の縁を弄《もてあそ》んでいた。
「帰れ!」
 彼は自分の胸
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