ものの、与えられた謙遜と同じ程度に暗く濁っていた。彼は梟《ふくろう》の声を耳にしなかった。彼は外面的にはかなり落着いていた。彼は自分の計画の齟齬《そご》しなかったことに興味を覚えた。そうしていまは彼自身の迫害者さえこの非道に似た一種の犯罪を嗅《か》ぎつけなかったと思えば、彼には何とも言えない無思慮の愉快感が感じられた。
その翌日、彼はわきめもふらずに、町の昼の雑沓《ざっとう》をその中心から遠退《とおの》いた。そうして彼がM――銀行で用を達してから約一時間は経過していた。――
彼の債権者は彼へ笑いかけて挨拶した。彼は口を噤《つぐ》んで、眼球を風車のように動かした。しかしその時、彼のポケットには、一日の煙草銭さえなくなっていた。そうして彼の貧しい札にありつけなかった債権者の一部の者は、彼の顔を煩《うるさ》く覗《のぞ》き込んだので、彼は一こと物を言わなければならなかった。
「三日後にするのだね、ではこの次に……いまは仕方がないのだから……」
彼がそれらの債鬼へこう言ったその三日目の前日は、彼が親友青沼の家へ移転する日であった。
*
冷かな風はすばやい忍び足をして、青い空を横切って行った。彼はこんな天候の対照でさえ自分の胸のなかが冷たくなって行くように感じた。
彼は靴音のような喜びと驚きと怖れとの雑った一種の苦しみで、彼の母親から送られた手紙を読んでいた。彼女は明日にでも上京して来るようなことを書いて寄越《よこ》した。そうしてそのことのみをその一本の手紙のなかに口やかましく繰返していた。彼自身にとって必要なことは何一つ書いてなかったと言えるほどであった。こんなことになったのも、美角夫人からの手廻しであろうと、彼は不快になって後悔した。母親は彼が何事もせずに、我儘勝手に歩き暮していると考えている。そうして彼女の考えに間違いはないのであった。ところで、その用もなくぶらぶらと歩き廻ることは、この機会を利用して止めてほしいというのであった。彼自身としても、こう言われるまでもなく、一日一日と遊び暮していることは、退屈であるばかりでなく、更に心苦しいことであるから、このことを思う瞬間からでもすぐ止めてみたい、そうして学校へも出席してみたい。と、彼は願っている。しかし彼はこう自分自身へ願っただけでどうにもならなかった。そうしていつのころからか、彼は彼自身へ向って一
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