らを見守っていた。
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
人人の声がいっせいに和したのであったが、彼にはその声が完全な言葉としては聞きとれなかった。そうしてそれは人の名前が叫びあげられたようにも感じられた。その時、彼は蜜蜂の一群が、彼自身の周囲に小さな龍風《たつまき》の渦を捲《ま》いて飛び乱れたかのように感じたので、思わずも腰を折って馳け出した。
「誰だ?」
「あの男は?」
「誰だ?」
彼は律動している蓄音機のなかから飛び出したように感じた。そうして彼はそれらの声に逐《お》いかけられながら、ようやく逃げのびて、土蔵の立ち並んだ黒い色の感じのする町のなかへ、彼自身の姿を見出した。その時、彼は何者かに逐いかけられているように感じた。その瞬間、彼は一人の男に呼び止められて、振向いた。そうして彼は若しも鳥ならば何よりも先きに羽撃《はばた》きするように驚いた。
「影佐君?」
「……?」
彼は返事もせずに機械的に立ち止まった。靴は泥のなかへめり込んだ。その男は馳けて来たらしく息を弾《はずま》せていた。ちょっと見ると、ポオル・ゴオガンのような感じのするその青年は、彼の学校であるL――大学の制服を着ていた。
「影佐君ではありませんか?」
「……え!」
彼はこう答えたものの、何故に見知らぬこの男はこんな気恥しいシインを見逃してはくれないのかと不快に思った。それともこの男は、彼のいまの苦境を全然見なかったのかも知れない。しかしそれはそのいずれのことにしてもいいのであるが、この男は彼自身の名前を知っている。彼はそのことに疑念をはさんだ――
「このごろは少しも教室へ見えませんな!」
この場合ではなくとも、この質問はこの頃の彼にとっては詰問である。誰に問いかけられるとも。しかし――彼はこの男もやはり自分と同じクラスの者であるに違いないと思った。それにしても彼が教室へ出席しなくなってから、彼は余程の日数を数えるにいいのである――教室にあって、彼は彼自身の溜息とセコンドとの数の交響楽のリズムをひとりでに教えられた。彼はふと教室の模様を目前へ描いてみた。そうして教室の窓越しに豊麗な四月の町が、彼自身の瞳へ映っているようにさえ感じられた。そうして彼は自分の唯一の楽みであるその窓から、人間の言葉とか動作とか人生の影とかを掴もうと夢みたことを、いまだに忘れてはいな
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