。この時突然、彼には二間とは間隔のない路巾《みちはば》が、彼自身の躯《からだ》を圧《お》しつぶすように、同じ速度を踏んで、左右から盛り上り盛り上り逼《せま》って来るように感じられた。彼は右へ曲ろうとするはずみに、ちらりと交番所のなかを窃《ぬす》み見した。鬚《ひげ》のない若い警官が、手にペンを握ったまま入口へ乗り出して、彼の様子をじっと※[#「目+嬪のつくり」、170−下−17]《みつ》めていた。彼の瞳には、開かれたままの白い帖簿が映った。彼は瞬間に心持ち歩み悩んで、その足並みを崩さず、交番所に隣接した郵便局へ心を向けていた。
「金……金……金……」
彼は胸のうちで呟《つぶや》いて、後ろを振り返ってみた。警官の土龍《もぐら》のような眼は、突き出る首とともに彼の後姿を追うていた。彼は自分が踏み早める靴音に驚いていた。そうして彼はまっしぐらに路地から路地を潜《くぐ》り抜けながら、墨色の深い杉森の寺院のなかを縫うて、ようやく煙草《たばこ》店のある路地へ忍び込み、そこから宿の前へ跫音《あしおと》を止めた。
この宿の戸は夜中でも錠の必要がないほどやかましくがたつくので、彼はその開閉のたびに宿の人人へ大へん気の毒な思いをする。それにいまは決して必要もなさそうな振鈴が、軋《きし》む戸とともにその倍以上も鳴り響くので一層気がひけていらいらとさせられる――しかしいまはそんな臆病な気持に捉われていてはいけない。絶対絶命の時ではないか。どんな種類の犯人でも、一度は逃げのびられるだけは逃げのびたいと願うものである。たったいまの彼の心もそれと少しの変りもない。交番所に隣接した郵便局には、女事務員が四人も働いている。そうして彼女等に雑《まじ》って一人の老人がいるに過ぎない。そこで、彼は夜中こっそりとこの郵便局へ忍び込んで、金庫をねじあける、そうしてそこにある金銭をみな持ち出す。これがうまうまと成就すれば、彼はこの金銭を自分の部屋の火鉢の灰の底へ掩蔽《えんぺい》してしまう。この思いつきは、彼にとっては一つの誇りであるとさえ思える。そうして彼はそしらないふうを装うて小金から費い出す。彼が先日以来気まぐれに考えていたことを、あの鬚のない若い警官がちゃんと飲み込んでいる。彼の胸のなかを伝心的に見破っている。警官は彼の考えをすっかりと胸のなかに感じている。彼は怕《おそろ》しいと思った。
彼は狼狽《あ
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