、、というのである。
 ドイツ語の新刊書を有難がってはいない不用意な私は、一時なる程そうかなあと思ったが、この手紙に紹介してあるドイツ語の本のタイトル(ブロークンなドイツ語だったが)に見覚えがあるような気がして考えていると、思い当ったものがある。兼子という篤志の人自身からそれらしい本を送ってもらったことがあったのを思いだしたのだ。家へ帰って戸棚を引っくり返して取りだして見ると果せるかなその本なのである。
 一体何んなことが書いてあるかと思って所々読んで見ると、人間の身体は左側が男性の原理で右側が女性の原理で出来ているから、重心の所在が移行することによって女が男性化したり男が女性化したりするので、そこから起きる色々の病気もあるわけで、これは身体の左右の均衡を回復することによって治療出来る云々、といったようなことが書いてあるのである。
 人間学と治療とが結びついたよく在る種類のもので、偶々それが哲学の名の下に現われたのがこの本なのだ。こういう有難い哲学には必ず信者や道友がいるものだが、阿部次郎氏がこの本を剽竊したと知らせて呉れた未知の人も多分その信者や道友の一人なのだろう。――だが私は遂々フキだしてしまったのである。次郎氏、哲学行者の本を剽竊して『改造』に論文を書く! 何と愉快ではないか。
 ところが問題は笑って済まなくなってくるのである。兼子氏の「道友」は更に今度は日本語で書かれた氏の『哲学概論』めいた本を恵贈して呉れたが、それを見ると、前のドイツ語の方の本に対する「独仏」における大家(?)の賛辞が付録になっている。ブランシュヴィク氏やリッケルト氏は月並の無意味なお世辞を述べているに過ぎないが、O・フィッシャー氏の如きになるとクラーゲスなどを紹介してマンザラでもない賛同の意を表わしている。即ち、東洋思想とか東亜文明とかもっともらしい片言を述べ立てた「サムライ」や「ハラキーリ」式の東洋哲学観なのである。「西洋思想」を軽蔑するらしいこの友達が、欧州人に褒められたからといって喜んでいるのは少し変だが、それはとに角として、もう一つ気にかかるのは、兼子氏がこの本でもっとも興味をもっているらしい哲学的な思想対策と言ったものを見ると、何のことはないもっとも俗物的な国粋ファッショ式な善導案にすぎないという点である。私は折角深遠な「哲学」もこれでスッカリお座がさめはしないかを恐れるのである。
 で、兼子氏のような哲学に何か意味があるとすれば、それは一種の人間学と国粋哲学との結びつきを、相当ハッキリと体現して、現代のファッショ化したブルジョア哲学の漫画的一風景を点出した点にあるのである。
「独仏」ではこの頃色々の意味でのアントロポロギーが流行している。性格学とか人相学とかが、医者や心理学者や哲学者によって担ぎだされている。夜店で手相を見る易者が、哲学博士と名乗っているのは、今日では大いに冗談ではなくなって来たのである。
 この人間学は治療とか開運とかいう手取り早い御利益に結び付いているのだが、これがもっと陰険なのになると、「体験」という範疇に訴える場合が多い。もっとも体験といっても色々あるが、この頃使われるものは、歴史や社会の内部を遍歴する様な科学的な意義を持った体験(ディルタイなどに見られる)のことではなくて、矢張り、手取り早く、身体と結び付いた言葉通りの「体験」でなくてはいけないらしい。「悟り」とか「肚」とか、男がすたるとか男にするとかいう「男」とか、およそ安価なイージーゴーイングな体験がもっとも良いらしい。こうした「体験」の御利益は、世界の問題を、自分の一身上の肉体に集中することによって片づけることが出来る、という点にあるのである。
 こういう「精神的」な肉体主義式体験の専門家又は愛好者を以て自ら任じる人々が、今日では大抵、国粋ファッショ哲学者だという事実は、注目すべき根本公式である。読者はすでに、「精神的な」肉体家[#「肉体家」に傍点]倉田百三氏の場合を知っているだろう。それから又、西田哲学を禅的な・スティグマ的な・少女ホルモン文学的な・「体験」の哲学だと考えている男や女は至るところに満ち充ちているが、そういう所から西田哲学で思想善導をやろうと考えている人も決して少なくない。そして、今日では肉体主義式「体験」が、東洋文化や国民思想や日本精神への鍵だというこの点を、最も露骨に組織的に示しているのが兼子氏のような「哲学」なのである。
 私は別に兼子氏の件を問題にしているのではない。之は単に引合いに出しただけなのだから、「道友」達に何とかかんとか云われることは迷惑である。問題はわが国の現在に於ける哲学的イニシャティブの惨めな退行現象にあるのだ。例えばドイツ哲学などはその精神的なペダントリーにも拘らず、今では極めて低級な文化的水準のものだとしか考えられないが、わが国になるとそれがもっと徹底的に露骨に、特有な形で低級なのである。
 もっともわが国のブルジョア哲学の或るものは、ブルジョア哲学としては、国粋家を喜ばせるべく世界最高の水準に達しているようにも見えるだろう。然しそうした哲学は決して、自分の変り種である例の肉体主義式「体験」哲学を粉砕することを欲しないし、又事実それは出来ない相談なのである。けだしファッショ式な悟りや「肚」の哲学は、外でもない、わが国現代ブルジョア哲学そのものの優秀なカリカチュアに外ならないからである。
[#改段]


 7 岩波文庫その他


 現在発行されている文庫版の主なものは岩波文庫(レクラム版の装幀に近い)・改造文庫(ゲッシェン版の装幀にまねて及ばず)・春陽堂文庫などである。春陽堂文庫は本年(一九三〇年)七月現在ではほぼ千種に近いようであり、改造文庫は約三百五十種、岩波文庫は約六百種程あるようだ。他に数の少ないものでは山本文庫(三十種程)などもあるが、今の処まだ問題とするには足りないだろう。読者から見ると文庫版の一般的な特色がその廉価なことと、ありとあらゆる代表的な著作に権威ある選定を与えたものであるということとにあるのは、云うまでもない。なるべく安く、そして出来るだけ代表的な著述の全般的なセットを、なるべく信頼するに足る校訂によって手にしたいということが、読者の希望だ。
 終局に於ける価格の問題から見ると、どの文庫版も大差ないと見ることが出来よう。星一つの値段は違っても、字数からいうとあまり価格の差はないようだ。問題はその内容の区別にある。まずありと凡ゆる著述の中からその代表的なものを選ぶという点になると、つまり、一切の学術文芸について多少とも古典的な意味を有つか、又は著しく大衆的な一般性を認められたものの内の良質なものか、を選ぶことになるわけだが、その範囲が広いという点では、岩波文庫が第一で、改造文庫・春陽堂文庫・の順でこれに次ぐのである。春陽堂文庫は主として文学のものが多く、改造文庫は文学と社会科学に限定されているといってもよいが、岩波文庫は殆んど凡ての文化領域にその関心を拡げている。これは代表的著作のセットとして、一般的な教養のために用意するには、必要な性質なのである。一般に文庫版は研究書や学術書というよりも一般的な教養の書物を提供する任務を持っているからだ。
 校訂の権威については、矢張り岩波文庫を推さねばならぬようだ。他の文庫に権威がないというのではないが、元来校訂に最も細心な注意を払うのが、岩波出版物の特色で、文庫もまたその例にもれない。少なくとも学究的な安心を以て読むことが出来るという点が、この文庫を買い又は所有させる魅力の一つだと思われる。
 だが岩波文庫のもう一種の特色は、現代日本に於て著われた著述を含むこと極めて乏しいということだ。大部分が外国に於ける古典的価値ある歴史的に残る文献の翻訳であり、その次が多少の日本の古典である。例外として、現代作家のものがいくつかあるが、この点到底春陽堂や改造の諸文庫の比ではない。勿論これは営業関係から見ると却って、岩波出版物全般の商業上の堅実さを意味するわけで、つまり自分の処の普通の現代著述の単行本は、文庫版としては安売しないということだが。
 それに事実上今日最も読まれるものは、何れによらず翻訳物であるらしい、これは日本の読書界の或る種の健康さをこそ現わせ、決してその無気力を意味するものではない。実際吾々の摂取する最も良質な知識や見識は、その大半が古典的意義のある外国の書物の翻訳から来るのである。というのは、真に古典的なものは実は世界的なものなので、之を外国の書物であるとか日本の本でないとか云うことが殆ど無意味であるからなのだ。――従って岩波文庫が翻訳物に主力をそそいでいるということは、その営業上の理由を別にして考えて見ても、極めて意味の深いことなので、もし文庫版なるものが一般に、さき程云ったように一般的な教養の糧を提供するという文化的目的を持ち前とするなら、いやより正確に云って、そういう文化的目的を標榜し得るような結果を企業上持ち得るものなら、日本の今日の文庫版は、翻訳物を中心としなければならぬということが、必然であろうと私は考える。私は本多顕彰氏と共に「翻訳家の社会的地位」を尊重するばかりでなく、翻訳そのものの日本文化に於ける地位が、極めて高からざるを得ない、と考えている者なのである。
 岩波文庫が大体に於いて信頼すべき権威ある翻訳を中核としているという事情は、もう一つこの文庫に長所を与えている。それはこの文庫が云わば「岩波的観念」に大して支配されていないということだ。他の岩波出版物は、少なくともその選定に於て、今日では決して高級出版物を全面的に代表しているとは、考えられない。そこには著しく岩波臭い好みがある。文化が好みに堕す時、もはや対社会的な指導力を失う時だ。有態に云って、最近幾年かの岩波出版物は文化指導的なものだと云い切ってしまうことは出来ないのではないかと思う。「講座」や「全書」はなる程、日本文化の最高水準を示し指導力の絶大なものだが、併しアカデミックな技術水準だけで、文化水準を測ることは、アカデミシャンの迷信である。私は岩波出版物に於て、その内容の高さに拘らず、一種低い階級性の感触を有つものだが、古典的な外国文献の翻訳は云わば文化の材料のようなものだから、そういう欠陥が目だたない。岩波文庫が日本の文化に貢献すること大である所以だ。
[#改段]


 8 現代哲学思潮と文学


 古来哲学は思想の科学である。そういうと殊更哲学の領域を制限するように聞えるかも知れないが、恐らく夫は、思想とか哲学とかいう観念をごく便宜的に呑み込んでいる一種の常識のせいだろう。私は今夜(一九三七年三月)偶然横光利一氏の「科学と哲学」というラジオ講演を耳にしたが、その論旨はとに角として、思想とか科学とかいう言葉が甚だ軽薄な使われ方をしているので、寧ろ心外であった。言葉はどうでもいいように見えるが、言葉のルーズなのや軽薄なのは直ちに物の考え方を誤る恐れがあるし、又それ自身物の考え方のルーズさや軽薄さを意味しさえするだろう。――だがこう云って来ると、直ちに、哲学と文学との連関に這入って来るが、それは後にするとして、とに角哲学は古来思想の科学であったし、現在でもそうなのだ。
 自然哲学はでは思想の科学か、と云うかも知れない。だが自然哲学の歴史は、自然を如何に考えるか[#「如何に考えるか」に傍点]という問題の解決と共に動いて来たことを忘れてはならぬ(例えばタレスの水から無限定者に来るまで)。形而上学は思想の科学かと云うだろう。所謂形而上学(純正哲学という意味での)は明らかに思想の科学である。例えばベルグソンを見るがよい。世界に就いて物を最も広く深く考える考え方が、ベルグソンなどの形而上学と呼びたいものに他ならぬ。
 思想の科学は常に認識理論乃至論理学であった。勿論新カント派の意味する認識論や論理学、又学校論理学の類に局限されたものの謂ではない。一切の文化領域を貫く認識とそれに必要なカテゴリーの秩序や観念の秩序の検討のことだ。だから思想の科学としての哲学は一切の文化
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