とにあり、又そこから当然出て来ることであるが、史的唯物論の科学的な歴史叙述方法を具体的に適用して書かれている、という点にある。この二つの点でかけがえのない力作だ。
即ちギリシアから今日に至るまでの世界哲学(西洋篇という名称を仮に用いるとして)をば、観念論に対する唯物論の闘争として可なり克明に跡づけただけではなく、この闘争の消長を時代の社会構成によって首尾一貫して説明することを試みている。本書の最も価値のある部分は、判然と史的唯物論によっている哲学通史だというこの点に横たわる。そして固よりこの史的唯物論的叙述は、哲学が社会に於ける歴史的所産であると共に、そのためにも亦、元来夫が実在の模写であり、従って論理的所産であるという所以を、誤たずに典拠を示しながら実現して見せている。メーリングの哲学史の方法に対する著者の批判は、この本の内容自身によって、生かされている。だから人々は之によって、この本がもつ哲学史叙述としての水準をほぼ知ることが出来よう。
第一篇は「哲学史の方法論」であり、ヘーゲルの哲学史方法とメーリングの夫とを批判することによって、「科学としての哲学史」の課題を決定する。第二篇は古代・中世・近代・の三部に分れる(第三篇は多分「東洋篇」になるのだろう)。第一部古代の第一期(ミレトス学派からデモクリトスまで)は古代唯物論の確立を、第二期はソフィストから(プラトン・アリストテレス・を経て)エピクロスまでの観念論と唯物論との闘争を、第三期はギリシア・ローマ・哲学の観念論的堕落を取扱う。この時代区分は一見従来の哲学史の夫とは別ではないが、この区分が見事に唯物論と観念論との間の消長を意味していることを、読者は初めてハッキリと知るだろう。この点今の個処には限らないのである。古代哲学は本書の内でも最も力が這入ったものではないかと思う。特にその社会的背景があまり之まで注目されていない古代の哲学者達と、その哲学との社会的階級的分析は、教える処が多い。例えばデモクリトスの評価やソフィストの再評価や夫とソクラテスとの対比などは、当然なことではあるが事柄を非常に明確にしている。プラトンとアリストテレスとの思想上及び階級上の対比も示唆に富んでいる。奴隷制と古代哲学との一貫した関係は云うまでもないとして。
第二部中世ではスコラ哲学・アラビア哲学・の思想的・社会的・要約があり、それを通じて封建制の崩壊と共に自然科学の勃興と唯物論の復活とが必然であることを示す。第三部の近代哲学はイギリス唯物論(経験論)・大陸唯物論(合理主義)・主観的観念論及び不可知論・フランス唯物論・ドイツ古典哲学・弁証法的唯物論・ヘーゲル以後の俗流唯物論や観念論諸流派・を取り扱う。本書の近代はその歴史が複雑である割合に叙述の簡単な処が少なくないが、之は或いはそれでいいかも知れない。と云うのは多くの読者は近代哲学に就いては相当の哲学史的常識と社会機構上の分析の多少を持ち合わせているからだ。
全篇を通じて目立つことは、繰り返して云うが、社会機構の必然的な推移に於ける夫々の位置によって、一切の哲学者と哲学思潮とを特色づけ、それと思想の哲学的推移の必然性とを、注意深く組み合わせたという可なりオリジナルな努力だ。夫々の哲学思想の細かいニュアンスに就いての分析は、この種の概括的な本に求めるべきではない。社会に於ける哲学思想の流れの要所々々をおさえるのに、必要欠くべからざるものが本書だ。
之はこの本にとっては大きな問題ではないかも知れぬが、著者はフィロロギーが哲学の歴史上演じた役割をどう評価するだろうか。特に近代観念論とフィロロギーとの関係は実に深いだろう(フンボルト・ニーチェ・シュライエルマッハー・ディルタイ・ハイデッガーなどは云うまでもないとしてヘーゲルさえ)。否、プラトン・アリストテレス・でさえ、関係は浅くないようだ。とにかく近代に於いては哲学的フィロロギーは唯物論の最大の敵手の一つのようだ。
この書物は現代日本に於ける唯物論の発達にとって、一つの有用な踏台を提供するものである。そのオリジナルな功績は注目と尊敬とに値いする。
(一九三六年・白揚社版・菊判四〇三頁・定価一円五〇銭)
[#改段]
10[#「10」は縦中横] 岡邦雄・吉田斂・石原辰郎著『自然弁証法』
本書はまず二つの著しい特色を有つ。第一は自然弁証法に関する日本に於ける最初の纏った叙述であるという特色だ。本書の内でも触れているように、日本にも自然弁証法に関係した著述は決して少なくないが、基本的な問題から検討してかかった単行本はない(訳は別として)。小冊子ではあるがこの点、記憶されるべき云わば画期的な作品である。第二の特色は、之が三名の著者の真の共同研究になるものであるばかりでなく、同じ問題に就いての三名夫々の意見が読者の前に並べられつつ或る程度まで整理されて行くという、対話[#「対話」に傍点]或いは寧ろシュンポジション[#「シュンポジション」に傍点]の形を持っている事だ。実際やったディスカッションをそのまま本にしたもので、日本の本としては極めて珍しいものだ。単に珍しいだけが勿論能ではない。この形式が齎す長所は、読者に対して著者の往々不用意な見解を押しつけずにすむという事、そしてどの点に多くの疑問があり、どの点にはもはや大した疑問がないかということが、読者におのずから判るということ、従って読者は一方に於て安心して信頼しつつ読めるとともに、著者達の異論を比較検討しつつ読むので、みずから考え方を練りつつ独自の見解をそこから導き出し得るということ、そうした処にあろう。特に自然弁証法のような多くの問題を蔵しているテーマについては、今の処、こういう書き方の方が、科学的に慎重だとさえ云えるかも知れない。
前篇「自然弁証法史」と後篇「自然弁証法概論」とからなり、前篇は主としてAと名乗る吉田氏、後者は主としてCと名乗る岡氏が、原案提出者として筆を執り、AとCはBと名乗る石原氏と共に、之を審議するという形になっている。前篇はドイツに於ける自然弁証法の確立(ヘーゲル・フォイエルバハ・マルクス・エンゲルス)(エンゲルスは特に詳細でデューリングの解説にも触れる)、ソヴェートに於けるその発展、日本に於けるその展開、の三章からなり、今までなかった可なり役立つ史的叙述だ。日本に於ける自然弁証法の文献も亦便利なものである。この篇は比較的ディスカッションは少なく、寧ろ普通の叙述体に近い。――最も特色のあるのは後篇で、特にC氏に対するB氏の批判が目立つ。ここでは所謂自然弁証法なるものに含まれる根本問題とトピックとが一通り尽されているが、皆が皆まで終局的な解決の形を取っているとは限らない。最もディスカッションに興味のあるのは例証[#「例証」に傍点]の問題と「自然弁証法の具体化[#「具体化」に傍点]」の問題とだ。これ等の問題に通ずる大体の傾向から云って、Cは自然弁証法なるものの力点を科学的認識の総合という点におこうとするに反して、Bは之を自然観[#「自然観」に傍点]という点におこうとする。そしてAは之を自然科学概論[#「自然科学概論」に傍点]に近いものと考える傾きがあるようだ。勿論三者とも自然の運動発展の一般法則が自然弁証法だということを認めた上でのことだが。私の意見を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んでよいなら、自然弁証法は、自然が自然認識の方法を含むことによって、より具体的な認識対象となった処の、「世界」というようなものと考える(拙著『科学論』〔本全集第一巻所収〕)。之は多分Bの意見に一等近いだろう。それはさておき、後篇の主役たるC氏の根本傾向には、エンゲルスの弁証法に対する一種のスコラ的批判が存するようだ(一般的なスコラ主義はAになると更に表面化している)。その結果、読者はC氏が自然弁証法を少し儀礼的に、義務的に、取り上げているというような感触を受け取らなくもない。勿論之はC氏の本意ではないのだ。だが自然弁証法の具体化を技術という観点から力説しているのは、C氏の極めて積極的な点である(尤も之だけが具体化[#「具体化」に傍点]の唯一の内容ではないにしても)。
本書特に後篇はまだ多分に引用に終止する自然弁証法の概説か序論かであって、その限り研究というよりも、可なり権威ある啓蒙と云うべきだろう。すでに『唯物論研究』誌上で批判された一二の個処もあるが、唯物論研究会に於ける自然弁証法検討の成果をよく組織したものとして、尊重すべき文献である。
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(一九三五年十月・三笠書房版・第一次『唯物論全書』の内、新四六判二八六頁・定価八〇銭)
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[#改段]
11[#「11」は縦中横] 安部三郎著『時間意識の心理』
この著書をブック・レヴューの材料として選んだ理由の一つは、日本に於て時間に関する独立な研究が極度に乏しいという事情である。物理学関係からする研究も乏しいし、心理学関係からするのも乏しい。比較的眼につくのは田辺元博士や高橋里美教授による哲学的研究であるが、之もまだ包括的なものでない。処が時間の問題は哲学的に最も重大な意義を有っている。実在の史的転化の形式が時間であり、又意識そのものの形式が時間である。時間問題は空間問題と並んで、唯物論的に最も重要なテーマなのだ。唯物論的研究を一応ここに集中することさえ必要だと思われる位いだ。
東北帝大心理学教室で編集しているこの叢書は恐らくどれも尊重されてよい著述的アルバイトだろう。本書も亦そうだ。著者は千葉胤成教授の実験的で且つ内省的な心理学的方法をうけついでいるようである。「対象意識としての時間意識」と「固有意識[#「固有意識」に傍点]としての時間体験」との区別に夫はよく現われている。それから時間の哲学的分析に於て功績のある高橋教授の影響も大変よく取入れている。知覚的時間と情意的時間[#「情意的時間」に傍点]との区別などがそれだ。著者が最も得意とする業績の部分は、「二時程比較判断」を中心とする時間評価の実験的研究であるらしいが、之を包括している哲学的省察力は相当力量があると思われる。
本書は大体に於いて「時間意識」に関する科学的入門書として必要な観念と知識との整理を与えたものと見てよい。時間概念の分類、固有意識としての時間体験、知覚的時間・時間感覚・時間直観・の問題、時間領域・時間閾・時間評価・過現未(時間のモーディー)、等の問題、睡眠時や変態条件下に於ける時間意識等、が検討されて一応の整頓を与えられている(病態心理学的な時間研究を示唆しているのも教えられる点だ)。この包括的な取り扱い方では、殆んど日本に於ける唯一の著書かも知れない。
併し著者の眼界は心理学的関心によって可なり制限されているようだ。つまり時間意識を一般的な時間問題解決の尺度にし過ぎてはいないだろうか。著者は哲学的想定として、大体現象学(フッセルルの)の立場に立つと思われるが、そこらから時間というカテゴリーを観念論化して所有するかのような観を呈している。「客観的時間従って物理学的時間は如何なる意味に於ても体験時間でないであろうか。著書は客観的時間も亦一種の体験時間であると思うものである」云々。「人はいつしか吾々の心中の構成物であることを忘れて、それを意識とは独立に存在[#「存在」に傍点]するものとするに至った。」併しこういう見方によっては実在の歴史転化の形式としての時間は遂に理解出来ないだろう。時間は時間意識だけでは片づかないのである。――巻末に文献がつけてある。文筆的には地味であるが、理論上の必要から正当に注目されるべき書物だ。
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(一九三六年九月・『生活と精神の科学』叢書・二十八巻・東宛書房版・菊判二六〇頁・定価二円六〇銭)
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12[#「12」は縦中横] ジード著 小松清訳『ソヴェート旅行記』
あまりに多く論じられた書物であるから、今更特別な紹介を必要としない
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