買ー」という一つのクリティシズムなのである。決して単に本を紹介するだけが目的ではない。紹介・案内・そして広告・推薦、ということも目的の一部分でなくはないが、最後の目的はもっと広く深い処にあるだろう。だからブック・レヴューを本式にやると、いつの間にか、その本が文芸の本ならば、最も具体的で且つ時事的な文芸評論にもなって来るのだ。時とするとブック・レヴューだと云いながら、その本はそっち除けになって、本とは直接関係のないエセイになったりする場合も、例が多い。又逆に大抵の多少は文献的な扮飾を有った評論やエセイは、要するにブック・レヴューみたいなものであるとも考えられる。
 で私は、「ブック・レヴュー」というものがクリティシズムの一つの重大なジャンルであり、一分野であるということ、そしてわが国では之まであまりその点が世間的に自覚されてはいなかったらしいということ、この二つの条件に基いて、こういう風変りな本を出版することにしたのである。私が右に述べたようなことは、勿論沢山の人が嫌ほど知っていることだ。ブック・レヴューが評論の入口であるというようなことは、クリティシズムに関する常識だろう(本多顕彰氏などいつも之を説いている)。併し個々の文学者や評論家の常識であるということと、世間[#「世間」に傍点]が之を自覚[#「自覚」に傍点]しているということとは、勿論別だ。世間は之を自覚すること決して充分でなかったというのが、事実ではないだろうか。
 さて、本書を世に送る所以は、右のような次第であるが、併し私が決してブック・レヴューの模範を示そうというような心算でないのは、断わるまでもあるまい。もし万一之が模範にでもなるとしたら、ブック・レヴューを今日の水準から高めるよりも、寧ろ却って低める作用をしないとも限らない。私がここに登録したブック・レヴューは、私の力自身から計っても、決して満足なものではなく、又世間の水準から云えば愈々貧弱なものだということを、卒直に認めざるを得ない。それにも拘らずこういう貧弱な内容のものを敢えて出版するのは、つまり一種の宣伝(「ブック・レヴュー」のための)であり、このまずいものを以て宣伝することが、やや滑稽に見えるとすれば、結局私はこの宣伝のための犠牲者になるわけなのである。私はこの位いの犠牲は忍ぶことが出来る。そういう図々しさを必要な道徳だとさえ思っているから。
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