ェ文学から理解されるのではなくて文学が理想や文化から理解されねばならぬように見える。
 だから次のような言葉も意味があるわけだ。「フランスの思想は過剰なフランスの文学によって誤導され、腐敗させられたと人はいうかも知れない。事実数多く思想家達は平穏を求めてリリシズムに逃避して了った。このことがロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、及び『勝利』、『聖なる顔』のエリイ・フォール、『人生について』のアンドレ・シュアレスのごとき知的指導者達の失敗の一部を物語っている」云々。
 文学が思想問題として、従って又文化問題として、全幅の意義を発揮しつつあるのは、現代の世界文学の国際的特色であろう。元来、旧くから文学はそういうものであった筈だが、それをハッキリと自覚しなければ文学として安心出来なくなったのは、現代の世界情勢の特徴だ。外交・政治・さえが一方に於ては思想的な課題となりつつある。文化問題としての資格をさえ持って来ている。そのことはつまり、逆に云うと、文化や思想が、それ自身ですでに政治的・外交的・意義を国際的国内的に持つようになったことを意味するのであるが、そこへ文学を持って行くと、文学は正に思想として、文化として、政治や外交と直接関係を生じるのである。フランスに於ける文学のそうした事情を最もよく告げているのがこの書物だろう。
 併しフランス文学がこの関係に於て、吾々に特別の文化的政治的関心を呼び起こすのは、云うまでもなく「文化擁護」運動を介してである。だが之は勿論、決してフランスだけの問題ではなく、又フランス文学だけの問題でもない。世界文化全般が、「文化擁護」という焦点をめぐって、回転している。フランスはその回転軸の一つとなろうとしつつある点に於て、特に代表的なのだ。
 ミショオはアメリカとフランスとの文学に精通したフランス人であり、本書はアメリカで英語で出版したものだ。大体に於て左翼的な進歩主義者であるが、右翼作家(例えばモーリス・バレースやシャール・モラスなど)に対しても充分な理解を示すことによって、却って最後的な批判を加えているとも見ることが出来る。本書は文化擁護問題の一報告書として記憶に値いする。日本の現代文学・芸術・哲学・科学についても、こうした思想的文化的報告書があっていいと思う。かつて土田杏村は英語でこの種の本を一冊出版した(著者自身による邦訳も出ている)。だがこ
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