ても、カトリックの復活が余りに著しいものであって、例えばハイデッガーによれば、真理というものは、科学によっては真に把握されない。何によってかと言うと、感情によって把握される。
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そのハイデッガーが言う所の形而上学的実在が、人間にひらかれるところの感情は不安の感情である、そういうことを『形而上学とは何ぞや』と言う本の中で述べている。
斯う云う風に大体にハイデッガーの根本思想とでも言うものは、一方に於て科学を否定し、不安の感情といった様なものを強調し、これによって結局は宗教に逃れている……
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戸坂 なぜ科学の否定が今日必要であると考えられているかが問題でしょう。
C 人間の根本的な存在が不安だというような斯ういう哲学が、現代の社会情勢に、どういう連関を持っているか……そういうことがなお重要問題として残されていると思います。
B その問題については、例えば、ハイデッガーやヤスペルスが科学的認識の代りに不安の感情という様なものを持ち出したり、シュペングラーが因果性の代りに運命の概念を持って来ると云った様な、そういう一連の最近の生の哲学の傾向……それは一口にいえば資本主義の一般的危機の哲学的表現として規定出来るでしょう。
戸坂 一体今日の科学(自然科学を標準として)、自然科学の根本観念は、近世の資本主義の発達と共に与えられた。従って資本主義の一般的危機と言ったもの、それから当然、自然科学的根本概念そのものの一般的危機が出て来るわけだと思います。社会科学と雖も自然科学の根本概念と一定の連帯を持っている自然科学的な諸根本概念が行き詰ったとして、ブルジョア的哲学者から受取られる。そこから資本主義の行詰りを観念的に飛び越えようとして自然科学的概念に拠る認識の代りに、何か他の認識形態を持ち出さねばならない。そこで形而上学という認識の仕方が新しく思い起こされるわけでしょう。
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ところが欧州のブルジョア哲学者達によると、そういう形而上学的認識は、最早欧州其のものの中には求めることが出来ず、東洋其の他の文化の中から拾い上げられねばならないと考えられる。
シェーラーの如きも、形而上学的乃至宗教的な知識というものを……欧州を救う新しい観念的武器だと考えている。
シェーラーの
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