A私がいつも云うように、一種の文化主義者[#「文化主義者」に傍点]であり、文化的な自由主義者[#「文化的な自由主義者」に傍点]に過ぎない。素より彼のようなタイプの進歩的文化人は、フランスに於ては一定の政治的な積極的役割を果しているわけだが、ジード自身が云っているように、彼は不思議にあまり政治や経済のことを考えていないのである。そして而もみずからコンミュニストだと云うのである。
文化主義者の習性の一つとして、彼は政治と文化とを別々に考える。文化は反抗と自由とによるものであり、政治は之を画一主義(コンフォルミスム)に堕落せしめたものだと考える。政治によって文化の新しい誕生が齎されるというような唯物史観的関係は、殆んど眼中にはない。之が彼の一貫したソヴェート文化観の観点なのだ。
ソヴェート文化に対する善意的同情者が、ソヴェート文化に対する認識の限界につき当らねばならぬ所以が、ここに暗示されていることを知るべきだ。
だがジードによって指摘されたソヴェート市民の文化的画一主義・独善的自慢主義は、あり得べき事態ではあっても、決してソヴェート文化の自慢にはならぬ点だろう。ただその不満をああいう形で発表することが、トロツキー主義に事実上符節を合わせるものであるという点が、文化問題を政治問題と独立に考えている例の文化主義者たるジードにとって、どこまで行ってもピンと来ないのは当然だ。
(付記、ジードの『ソヴェート紀行修正』については別に)。
[#改段]
5 宮本顕治の唯物論的感覚
或る意味で近来の待望の書は宮本顕治『文芸評論』と内田穣吉『日本資本主義論争』とだろう。後者については、追って書こうと思っている。宮本顕治は蔵原惟人に並ぶ素質を持った殆んど唯一の文芸評論家である。単に左翼評論家の内でそうだというのでなく、蔵原が日本の一般文芸評論家の内で占めている追随を許さぬ位置を認識した上で、そう呼ぶことが出来ると思う。
なる程宮本の活動の期間は大へん短い。この『文芸評論』にしてからが決して大部な本ではない。それにまだ年もあまり取ってはいないから善かれ悪しかれ若いものを感じさせる。だがいつでも大切なのは素質――そして社会的な――にあるのだ。その意味で彼の「素質」を高く吾々は買わねばならぬと思うのである。
彼の素質の良質な点は、有名な「敗北の文学」(芥川竜之介論)と「過渡
前へ
次へ
全137ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング