Aだが厳格な服従によって僕はその高貴なマントを剥いでやる。異議を唱えるという事は大きな阿諛だ、暴君に僕の家を開放してやる事だ。」
 このそれこそエスプリに富んだすぐれた言葉も、もはや前の二つの場合の例のような、健全な科学性[#「科学性」に傍点]を有っていない。ここに「深い管見」とでも云うべき、局処的真理のもつ虚偽、というものに、私は思いあたるのである。つまり多くの所謂「哲学」の書は譬喩の書ではないだろうか。それは人生の或る絵画ではあるが、設計図ではないようだ。
 訳は可なり立派な日本語になっている。いい訳である(最後にどうでもいいことだが一つ気になった個所がある。ハムリンという人名が出て来るが、あれはアリストテレス学者であるアムランのことではないだろうか)。
[#改段]


 3 耕作農民の小説


 農民作家創作集『平野の記録』という本を寄贈されたので、半分あまり読んで見た。編者鍵山伝史氏の「あとがき」によると、これに収められている六篇の作者は、いずれも農村に在住する耕作農民であるという。私はまずこの点に興味を惹かれた。都会に住んでいる職業的又半職業的な作家でない人達が書いたのだということ、そして恐らくそうした作者の数多の作品の中から選び出された代表作が並べられたものだということ、之は今日注目に値いする。
 編者はいっている、「私は雑誌『家の光』の記者だったが、その記者生活において、農村から送られて来る諸種の投稿に触れる機会を非常に多く持った。それらの大部分は、稚拙であり粗雑であった。誤字や、かな遣いの誤りなどを数えるとほとんどきりがなかった。「仕事」を「任事」と書いてあったり「屡々」という副詞を「暫々」と書いたり「意外」と書くべきを「以外」と書いてあったりするのはその一例だが、このように、およそ「文字」の使用に対してあまりにも無雑作である上に「文章」に対してもまた、放埒なまでに無思慮な原稿を見て、時には腹が立ち、時にはふきだしたくなることがあった。ところが、私はそうした原稿になれるにしたがって、職業作家の作品とはまた、おのずから別種のおもしろさを見出すようになったのである」云々。
 私の読んだのは、小説だけで、戯曲二篇はまだ読んでいない。なぜか、この場合に限らず、私は戯曲を読むことが億劫なのである。多分、戯曲は読むことで感受が完了するものではないという意識が邪魔
前へ 次へ
全137ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング