、一つの総括的な意味を、云い表わしておきたい。――科学は云うまでもなく事物の探究だ。文学も亦この科学的探究を踏み渡った揚句、課題を新たにした事物の探究[#「探究」に傍点]である。処で科学の探究の対象は真理[#「真理」に傍点]と呼ばれる。之に対して、文学の探究の対象が道徳・モラル[#「道徳・モラル」の「・」を除く部分に傍点]なのである。この人間的(実は「自分」の)真理は吾々のムードやマナーの末にまで現われるのだ。かくて道徳・モラルとは、一身上の真理[#「一身上の真理」に傍点]のことだ。
 だから道徳とは、丁度科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探究の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
 道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於て、道徳は吾々の生活意識[#「生活意識」に傍点]そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探究するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学[#「文学」に傍点]の仕事なのだ。モラル乃至道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰も鏡が凡ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而も一切の領域をその内に成り立たせる。
 私が道徳を社会科学的に見ることに満足しないで、何か文学的に見ようとした、と或る種の人達は考えるかも知れない。併し科学が文学に解消でもして了わない限り、道徳を文学の探究対象のことに他ならぬと見ることは、決して道徳に就いての余計な観念でもないし妙な観念でもない筈だ。何となれば、もしそうでなかったら、一体、文学というものは何のために、何をなしつつ、存在するのか。
(第四章に就いては拙著『思想としての文学』〔本巻所収〕――特にその第一項――を参照。)



底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
2001年5月16日公開
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