ント『意志の自由』――戸坂訳が参考になろう)。世間の人達が唯物論に反対するために考えつく根拠も、唯物論が之等の問題を(この正に倫理学的な道徳の問題を)、解こうとしないという論拠である。この批難に意味のないことは、いずれ明らかになることだが、併しこの種の倫理学的範疇にもう一つ「我」というカテゴリーをつけ加えたフィヒテのことを忘れてはならぬ。フィヒテはその純粋我[#「純粋我」に傍点]なるものの存在の仕方を論じることによって、行・実践[#「行・実践」の「・」を除く部分に傍点]なる倫理学的規定を強調するに至った。之は「我」という倫理的主体にとって必然な倫理学的規定だ。処が之は恰も極めて倫理学的な規定であることを見落してはならぬ。なぜというに、ここで行なう行とか実践とかは、何等人間的活動としての産業や政治活動を意味するのではなくて、単に自覚的に考えたり身体を動かしたりするということにすぎないからだ。何でも自覚的にやりさえすれば夫が実践だというわけだ。――だがそれにも拘らず「我」(之は必ずしも社会に対する個人[#「個人」に傍点]というだけのものではないが)は、人格という観念と共にブルジョア・イデオ
前へ
次へ
全153ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング