解答は極度に厄介なのである。デカルトの、「自分が考える、故に自分が存在する」というのが、何等の推論でないことは云うまでもないので、この「故に」は単に、彼が自分というものの存在を事実上すでに仮定していることの告白を示す気合か掛声にしか過ぎない。――とに角、少なくとも自分というものは、普通の意味での存在性を持ってはいない、普通の意味では存在しない[#「存在しない」に傍点]、従って普通の意味では無[#「無」に傍点]だ(無である[#「ある」に傍点]とは云えない、ただ無だ)。
 処で之と同じような事情におかれたもう一つのものがある。夫は意識[#「意識」に傍点]だ。意識も丁度自分に対立する自分という個人[#「自分という個人」に傍点]のように、精神や心と考えられればその存在性に問題はないが、それが本当に意識と考えられると、夫が存在するかどうかが問題だ。意識(Bewusstsein)はDas bewusste Seinという或る存在(Sein)であるように書かれるが、之は単にドイツ語で哲学の術語を造る時の便宜から起きたことに過ぎない。そして之は恐らく「意識ある存在」という意味にはならずに、「意識された
前へ 次へ
全153ページ中137ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング