いると解釈することとは、別だ。そういう解釈ではこの道徳的実体の現実的な意味が解釈さえ出来ないのだ。
解釈[#「解釈」に傍点]としては道徳は絶対精神の現われでよいかも知れぬ。ただ困るのは、それでは現実の道徳関係の理論的な説明にはならぬという点である。歴史はディルタイなどがそう云っている処とは反対に、正に説明[#「説明」に傍点]されるべきものであって単に解釈されるべきものではない。と云うのは、歴史に於ける事件の時間的前後相承の関係こそ、因果的[#「因果的」に傍点]に説明されることを必要とするものなのだ。歴史の発展を因果的に説明すること、丁度博物学・自然史が自然の歴史的進化を因果的に説明するように、社会の歴史的発展進化を因果的に社会の自然史的発達として説明すること、之こそ歴史の科学[#「歴史の科学」に傍点]の方法であり、史的唯物論の方法なのだ。
さて道徳を社会の自然史の立場から科学的に説明しようとすると、之は一つのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]に他ならぬものとなる。社会に於ける生産関係をその物質的基底として、その上に築かれた文化的・精神的・意識的・上部構築が一般にこの場合のイデオロギーという言葉の意味だが(尤もイデオロギーとは社会の現実の推移から取り残されたやがて亡びねばならぬ意識形態をも意味するが、道徳に就いてのこの意味でのイデオロギー性質も後になって意義を見出すだろう)、社会のこの上部構築としてのイデオロギーの一つが道徳現象だということになるのである。政治・法律・科学・芸術・宗教・それから社会意識、こうした文化乃至意識が夫々イデオロギー形態であるが、道徳はこの諸形態と並ぶ処の一イデオロギーだというのである。
だがここで注意しておかなくてはならぬ点は、こうしたイデオロギーとしての道徳なるものが、他でもない一つの文化領域[#「領域」に傍点]を指しているものだという点である。ではどういう領域かと云うと、すでにヘーゲルが見たように、夫は客観的に見て、社会の習俗やその習俗が制度的な実体となった習俗性(人倫)――家庭とか市民社会とか国家とか――でもあれば、主観的に見て道徳意識のことでもある。それだけではなく例えば法律其の他という領域にもその背後には道徳が横たわっている。だから道徳を一つの領域と見るにしても、それがどういう限界を持った領域なのかは、事実容易に決定し難
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