の」に傍点]社会形態に他ならないのである。だから少なくとも、とに角社会(このブルジョア社会)と国家とを区別したことは、ヘーゲルの重大な功績といわねばならぬ。
以上のようなものがヘーゲルの道徳理論(「法の哲学」)の輪郭の単なる紹介であるが、之が道徳に関して従来普通有たれたような諸観念を、如何に理解と心配りとの行き届いた仕方で取り上げたか、如何に之が道徳に包括的な観念を提供するものであるか、吾々はこの点をまず何より先に認めねばならない。経済・法律・政治・等々と所謂道徳との関係、風俗習慣人情等々と所謂道徳との連関など、之によって略々一応の連絡がつけられているということが、尊重されねばならぬ点なのである。なぜかというと、こういう予備的な観念がない処に、道徳の社会科学的観念などは発生し得ないし、又理解もされ得ない根柢をも欠くだろうからだ。
処がヘーゲルの社会理論(法の哲学)、夫が道徳理論に他ならぬのだと私は云って来たのだが、夫に一つの疑問が生まれて来はしないか。一体なぜ私は、社会をそうした(私が云う意味での)道徳でもあるように説明し得たかと云うと、それはヘーゲルのこの社会理論がつまり法の哲学だったからのことだ。いや、その法[#「法」に傍点]又は法の哲学[#「哲学」に傍点]なるものが、他ならぬ客観的精神[#「精神」に傍点]の現われや現われ方の叙述に他ならなかったからだ。つまり社会はヘーゲルによると絶対精神=理念=概念の自己発展段階に他ならなかったからである。だから社会的なの[#「社会的なの」に傍点]が皆法[#「法」に傍点]にぞくすると考えられているので、私は之を、私が今私かに予定している道徳の観念に照し合わせて、敢えて道徳の世界と合致するものと見做したのである。
併し社会が道徳的なもの、というのは法的なもの、と称することは、他でもない、例の倫理学の建前に他ならなかった筈だ。従ってヘーゲルの法の哲学による道徳理論は、実はまだ充分倫理学的な夾雑物から自由になっていない。之は倫理学と社会科学とが月足らずの双生児として癒着したようなものだ。夫は即ち、まだ本当に社会科学的[#「社会科学的」に傍点]な道徳の観念に行き得ないことを意味するわけだが、それと云うのも、ヘーゲルの例の理性=絶対精神=概念の独自な自己発展という体系に責任があったことだ。
この点はだが、凡ゆる機会に吾々が反覆
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