自然法として取り出されることとなる。でこの際の道徳観念は、再び全く社会に即して見出されるわけだ。
 処でこの後の方向に於ては、道徳が社会と直接に結合していると見られるのだから、そこでの倫理学は社会理論と不可避に結びついている筈である。で、この種の倫理学は、夫が一方に於て道徳という観念によってごく常識的に主観的心情としての道徳感を表象し勝ちな処から(なぜなら自然法の道徳的価値も結局は道徳感によって評価される他ないからだ)、その点あくまで所謂倫理学なのだが、にも拘らずこの倫理学はもはや単なる倫理学ではなくて、実は同時に社会理論でもなければならなくなってくる。否、この社会理論に結びつくのでなければ、倫理学自身も成り立たない、という関係になって来るのだ。それだけではない、たとい倫理学の方は成り立たなくても、社会理論は立派に独立に成立出来そうだ、という状態になって来るのだ。その実例は、トーマス・ホッブズを述べた際などに最もよく見られたことと思う。
 こういうわけで、倫理学は社会理論(=社会科学)と結合し、やがて之へ移行する。従って道徳の倫理学的[#「倫理学的」に傍点]観念は道徳の社会科学的観念[#「社会科学的観念」に傍点]にまで接触し、やがて之へ移行する。之は私がこの本で倫理学的な道徳観念の次に社会科学的な道徳観念を持って来なければならぬ根拠であるが、実は又之が、ホッブズから(カントを通って)ヘーゲルを経、更にマルクス・エンゲルスに至る社会科学的道徳理論の発展をも物語っているのだ。と云うのは、ホッブズでは倫理学とその社会理論とはズルズルベッタリに絡み合っている。之をハッキリと一刀両断したのがカントである。それをもう一遍絡み合わせて整頓したものがヘーゲルの「法の哲学」なのである。そして遂に科学としての社会理論を打ち建てることによって、倫理学の独立性を廃棄したものがマルクス主義者だ、というのである。――因みに近世に於ける社会理論乃至社会科学の発展は、一方に於て倫理学乃至道徳理論と直接関係が少なくないと共に、本質に於てやはり一種道徳論的乃至倫理的である処のユートピア(非科学的社会主義・前科学的社会科学)との関係を離れては考えられない。そして之は又歴史哲学との交渉からも見られねばならぬものを持っている(この発達史に就いてはH・クーノー『マルクス・歴史・社会・国家学説』が一応の便宜を提
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