必要とする処である。単に今日の通俗常識が、独り倫理学に限らず、一般に哲学・文化理論・其の他の階級性一般を承認せず、ましてそのブルジョアジー的階級性を認識しようとしないからばかりではなく、事実又、今日の通俗常識が道徳と考える処のものは、比較的忠実に倫理学から理論的奉仕を受けているからなのである。道徳という独自の絶対的領域の承認、善悪標準の樹立の無条件な強調、絶対不変な道徳徳目や道徳律への熱中、道徳価値に関する超合理主義的な神聖視、道徳に関する超歴史的・超階級的・特権の強調、等々他ならぬこの倫理学(ブルジョア道徳理論)自身が想定する処のものだったのである。
 その意味に於て倫理学は、その煩瑣な分析にも拘らず、要するに常識的な道徳観念の多少理論的な釈明に過ぎないのであって、決して道徳現象の科学的説明を企て得るものではない。道徳なるものはすでに常識によって与えられている、倫理学は単に之を明快にして秩序立てさえしたならばよい、というのが、道徳に関する倫理学[#「倫理学」に傍点]的観念の役割なのだ。だから、倫理学的道徳観念は、根本に於ては、常識的な道徳観念を批判克服しようとするものではあり得ない。まして新しい道徳観念の創造、そして又新しい道徳の創造、などについては殆んど全く無力なのだ。之は寧ろ初めから当然だと云わねばならぬ。なぜと云うに、今日の通俗常識はつまりはブルジョア社会に於て支配的な常識でしかないので、このブルジョア的の観念にぞくする常識的道徳観念が、同じくブルジョア社会の観念に立脚する所謂倫理学によって、批判され克服されるというようなことは根本的には、到底あり得ないことだからだ。

 だが今日の(ブルジョア)倫理学と雖も、決して近世になって初めてその準備を始めたのでないことは、云うまでもない。倫理的思想は古来、殆んど有史以来、凡ゆる民族に於て見出されるもので、倫理思想の一貫した発達を古代から今日に至るまで辿ることは、極めて容易なことと云わねばならぬ。少なくとも古代支那、古代印度(特に原始仏教)、ユダヤ乃至古代ローマ(原始キリスト教)、及びギリシアは、倫理思想の古代に於ける四つの大きな淵源であった。倫理なるものが、すでに述べたように社会の習慣と人間の性格とを意味したとすれば、つまり倫理思想というのは、人間の社会生活の意識的反映のことなのであって、これの割合直接な直覚的なそ
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