ことで誤りではないのだが(史的唯物論の不朽の功績の一つはここにある)、併しそれにも拘らずその場合にも、あくまで道徳に関する通り一遍の常識を利用[#「利用」に傍点]してそう云っているのであって、道徳なるものに関するこの場合の常識的想定そのものに就いては、なお問題を残しているのである。史的唯物論がそこで[#「そこで」に傍点]問題にしているのは(併し他の場合には問題がもっと変らねばならぬが)、所謂道徳なるもの(と云うのは「常識的に」道徳と呼ばれている処のもののことだ)が決してそれ自身絶対に独立した全く独自な原則に立つものではなく、実は社会機構に於ける下部構造の上に建てられた処の、そしてこの下部構造を原因とする一つの結果としての、上部構造の一部分に他ならぬ、ということであって、この所謂道徳なるものが実はどういう含蓄を有つものであるかは、その限りではしばらく論外におかれているのである。
 従って、道徳がそうした何か判り切ったような一領域であり、他の諸領域との区別限界などが初めから知れ切ったものであるかどうか、それはまだその限りでは問題ではないのだ。つまり史的唯物論が道徳に対して、そのイデオロギー論的段階づけによって一定の領域を指定した限りでは、さし当り常識で道徳と呼んでいる処のものはここに位置するものだということを、科学的に単に指示したに過ぎないのであって、それ以上に、この常識的な道徳という観念によって指し示された領域が果してそのままで充分に理論的に不都合のないものかどうかは、まだ問題になっていない。――だが史的唯物論によるイデオロギー理論乃至文化理論は、問題を当然そこまで押し進めなければならない筈だ。そうすると、一体道徳とは何かということが初めて根本的に問題になる。一体道徳という観念[#「観念」に傍点]が何かということからが問題になって来ざるを得ない。道徳なるものの占める領域がどこからどこまでに渡っているかというような領土問題などは、その時、道徳という観念の如何に対応する名目的な問題になると云うことが出来るかも知れない。
 道徳の領域は常識によると大して問題にならない程度に判然としているように思われている。例えば法律で禁じられていないに拘らず道徳では禁じられている行為がある。これで見ると恐らく道徳の領域は法律の領域よりも広く、そして又恐らく之を含んだものだろう、という風に考
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