を説明するか、それとも単に価値と事実とを区別して見るだけだ。――で道徳は、社会規範として説明[#「説明」に傍点]される。
倫理学は倫理的価値という一つの感情上の事実を単に主張するだけだ、社会科学的道徳理論は、倫理的価値感を現実的に陶冶する。倫理学は単に意志の自由の否定に抗議を申し出るだけだ、社会科学は自由一般の獲得とその現実的な形態の規定とを志す。倫理学は理想を単に想定として愛好する、社会科学的道徳理論は、一定の理想を現実的に割り出し之を現実的に追求することを志す。――この相違は凡て、道徳を社会規範として説明[#「説明」に傍点]しないかするか、の相違から来るものに他ならないだろう。
道徳が一つのイデオロギーとして社会規範として説明される時、当然なことながら、道徳の発生・変遷・消滅等々の歴史的変化が結論される。一定の社会規範の物質的原因であった社会に於ける生産関係は、その内に含まれている矛盾の関係に推されて、変化せざるを得ない。従ってその結果、道徳も亦必然的に変化せざるを得ないのである。ただ、原因の変化に較べて結果の変化の方は、大体時間的に後れるもので、道徳と現実とはその意味でいつも或る種の矛盾撞着を免れない。そういう意味で又、道徳はそれ独自の運動法則を有っているかのような現象を呈するのである(イデオロギーは凡てそうだ)。道徳の世界の絶対的な自律独立を認めようとするのも、この関係を誇張する結果からだ。
だから道徳(道徳律・善悪・其の他等々)は決して絶対真理[#「絶対真理」に傍点]ではない。それが事実上道徳的価値を云い表わす言葉である以上、道徳とは一種の真理のことだろう。だが一般に真理には決して絶対的なものはない、真理は客観的[#「客観的」に傍点]なものだ、主観的な真理などはない、客観性を有つが故に真理なのだ。だが絶対的[#「絶対的」に傍点]な真理はないのだ。もし絶対的真理があると云うなら、そういう神聖な真理は必ず何かの必要に答えている虚偽[#「虚偽」に傍点]のことだろう。法皇やツァールの真理はそういう神聖な「絶対」真理であり、即ち虚偽を蔽い匿すために神聖というベールをかけた、まやかし物に他ならない。――之は史的唯物論と唯物論的認識論との公式だが、道徳に就いても亦全くその通りなのである。
だが道徳が、その実質であるイデオロギー・社会規範、としてではなく、絶対的
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