配の権力を反映する社会規範が、忠義であり武士道であり、又孝行であったことも有名である(赤穂義士の歌舞伎的道徳へのアッピールはこれを特徴的に物語っている。而もこの快挙の最後の原因はこの浪士[#「浪士」に傍点]達を産み出した「お家断絶」の件であるが、倫理的理由に基くこのお家断絶が亦、幕府の領有拡大を目的としたものだった)。其の他其の他。
かくて社会的権威を有っている一切の道徳、道徳律、徳目・善悪の標準が、社会的権力を、社会的身分関係を、社会的秩序を、つまり結局に於て社会的生産関係を、反映している処の、社会規範の他ではなかったと云わねばならぬ。つまり一定の支配的な社会生産関係の維持乃至発展にとって有益[#「有益」に傍点]なものが道徳的であり、それにとって有害[#「有害」に傍点]なものが不道徳的なものだというわけだ。通俗常識が道徳について何より先に考えつく処の、例の善悪[#「善悪」に傍点]の対立は全く之に他ならない。単に銘々の個人々々にとって有益な好ましいものが道徳的で善だというのでもなく、又ベンサム風の単なる数量上の最大多数者の最大幸福が道徳的善だというのでもない。問題は個人々々にあるのではなくて社会にあるのであり、そしてその社会の意義もその単なる人頭関係ではなくてその生産関係という質の内にあるのである。社会規範[#「社会規範」に傍点]が道徳だということは、そういう意味に於てなのである。
だがこういうと、倫理学的常識は必ず反発と不満とを禁じ得ないだろう。それでは道徳に特有な道徳的感情・道徳的情緒――道徳的な満足感乃至後悔・義務感・正義感・良心・等々――が見逃されて了うではないか、而もそこにこそ道徳の道徳たる所以があった筈ではないか、と云うに違いない。だが、史的唯物論に従って道徳をイデオロギーとして見る吾々は、何もこの道徳感という一つの明瞭な事実[#「事実」に傍点]を見ないのでも忘れているのでもない。之こそ実は初めからの問題に他ならぬ。ただ吾々の問題は、この道徳感情をその社会的成立過程から科学的に説明する[#「科学的に説明する」に傍点]ことにあったのである。然るに倫理学者は逆に道徳感情を以て社会的道徳現象や一般社会現象を解釈しようとする。ただ夫だけの差なのだ。だがその差の意義は絶大である。
道徳を社会規範として社会的に説明する[#「社会的に説明する」に傍点]ことは、道
前へ
次へ
全77ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング