というのはつまり「昇る旭」だ。訳者小松清の労は多とせねばならず、又読まないより読んだ方がいいのだけれども、時事的な文芸作品としては、買うことが出来ない。なぜなら、その社会的認識の凡庸さが美的印象を濁らせるからだ。
私はこの間コクトーのラジオ放送を堀口大学訳によって聞いたが、日本人はその美しいキモノをなぜ洋服に見かえたかなどといって彼が不満がっているのを聞いて(尤もこれは彼の単なる無責任なお座狎れだったかも知れないがそれなら又別な意味で問題だ)、もうこの芸術家を芸術家として信用する気になれなくなった。私の判断は仮に知識が不充分なため間違っているにしても、信用出来ない気持になったこと自体が今意味があるのだ。「日出づる国」の場合もコクトーの場合と同じである。
しかし文芸時評の眼が、もっと深いところへまで透過しなければならないのはいうまでもない。社会的時事的なテーマを持った作品ばかりが、この新動向としての文芸時評の相手でないのは、当然至極である。丁度二・二六事件や戒厳令ばかりが社会的時事ではなくて、流行歌謡でも女のメーキャップでも社会的時事であるようなものだ。どれもが風俗に属している。いわ
前へ
次へ
全451ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング