た作品だろう。ところが事実、そういう性質の作品が注目を惹きつつあるのである。岸田国士はこの間「風俗時評」という題の作品を発表した。焦点[#「焦点」は底本では「集点」となっている]にやや疑問を持つところのその内容よりも、この名前に私は好意を持った。ところが新聞では早速「風俗時評欄」を設けたし、新居格は本当の(?)「風俗時評」を試みている(『新潮』三六年七月「現代風俗時評」)。

   二 軽風俗と重風俗[#この行はゴシック体]

 無論新居格の「現代風俗時評」は文学作品ではない。無論その心算でもない。単に街頭のスナップだ。だが、とに角これを見ていて、少なくとも風俗時評という言葉が文学的な響きを持って来たなという判断の合図を感じる。岸田国士の「風俗時評」は何かと一種の社会的判断をいい現わしている。これはいうまでもなく文学作品としてだ。――でこれから見ると、風俗の意義にも二つあって、女のメーキャップから戒厳令にまで及んでいるわけだ。だが風俗については後で述べよう。
 時事的な作品としてセンセーショナルな興味を惹く予算になっていたらしいのは、『中央公論』(三六年七月)付録「日出づる国」である。
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