になったので、こういう犯罪に陥ったといった方が正しい、というまでである。
勿論この犯罪の実質は決してただの個人的な性質のものではない。この場合に限らず一般の犯罪はそういうものだが、しかし普通の場合には犯人個人の立つ社会的バックは問題にしないことになっているのに、今の場合は信徒二百万と号する教団という特別のグループと宗教教理という特別な運動原理が控えているおかげで、問題は個人から一種の社会的バックにまで一続きのように受け取られ易い。当然これはしかあるべきもので、普通の場合にそれを社会的条件にまで遡源させて見ない方が間違っているのだ。――当局は教理に不敬がありはしないか教団会計に横領がありはしないか、と見ているのであり、またひとのみち教団が宗教行政に適応するために名目上自分でその一派と名乗っている扶桑教にも検察の眼を向け始めたものである。
大本教の検挙はこれとは趣を異にしていた。大本教の検挙の法的根拠はその教理内容の実際が不敬にわたることだった。不敬というのは国体と観念的に相容れぬことであり、それというのも実は却って国体の不敬な模倣であったからであり、つまり似寄っていたからであるが、こ
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