として、常識的な総合教育の請負業をやったのだと見ていい。だから多分彼の愛読者は、他の人の書いた本をあまり読まない人達であって、普通の読書界からは隔離された田舎のインテリが多かったのではなかったかと思う。杏村の書く物さえ順々に読んでいれば、他の本は読まなくても一人前になれるという意識が、彼の広範な愛読者を造り出したのだろう。最近の出版界では百科辞典が盛んに売れるというが、杏村は読者のこの需要を夙くから知っていた百科辞典屋だったので、そのために彼は、意識的に、凡ゆる領域に手を拡げる必要があったのだ。そうしなければ彼は常識教育の請負師として甚だ不都合な教育家に終る処だったのである。
 処で杏村の本質は、彼がいつも与えられた常識にアダプトするという処にあった、という点を、もう一遍思い出して欲しい。マルクス主義が「全盛」の時代には、彼は一種の修正マルクス主義者として現われた。処がマルクス主義が衰えて、即ち流行しなくなって、ファシズムが流行り出すと、いつの間にか多少ともファッショ的雰囲気を持った言論家として立ち現われる。彼の評論は、思想界に於けるファッション・セクションや婦人欄のようなもので、今何が流行っているかを、人に教えるのがその目的である。
 だが人に流行を教えることは、善いことでも悪いことでもない。大事なことは、自分自身がこの流行を尊重するかしないかということだ。杏村自身はどうだったかは知らないが、所謂評論家や思想家や学者には、人に流行を教える積りで物を云っている内に、いつの間にか自分自身がその流行にムキになって了う性の人間が、非常に多いのである。
 併し、自然にそういう結果になるのはまだいいとして、流行を知らないということが無上に恥かしいことであるかのように、流行を気にする文筆家の多いことは、気をつけなければならない事実である。こうした見識のないお洒落女のように小才かしい評論家が、特に、左翼から移行した作家や文芸批評家に多いということは(純文芸派は問題でない)、全く意外である。
 彼等は、なぜ自分が転向すべき[#「すべき」に傍点]であるかを、なぜプロレタリア文学をやってはならない[#「やってはならない」に傍点]かを、なぜ敗北する義務があるか[#「義務があるか」に傍点]を、用もないのにワザワザ発表したがっているようである。自分が野暮に見えないために、時勢を知ることに於て決して人にひけは取らないことを知らせるために、自慢そうに喋り立てているとしか、吾々には受け取れない。私は之を見ると、失礼ながら、キリスト教会で告白をやっている職業的な信者を思い起こす。だが私は未だ曾てこの種の信者の信仰上の節操を、首尾一貫を、信じる気になったことがない。社会は教会ではない。信者を甘やかす牧師も懺悔僧も、社会にはいないのだ。

   三 「事実」の「認識」とオッポチュニズム[#この行はゴシック体]

 日本が国際連盟内外の諸国に対して、満州帝国の承認をせまった際の理論的根拠は、満州帝国が事実[#「事実」に傍点]として存在しているのだから、凡ての理屈はこの事実の前に屈服すべきであるというにあった。日本にとっては、満州帝国がどういう原因から成立するようになったか、又どういう計画、どういう要望の下に建設されたか、等々の、すでに過ぎ去った過去の過程は、今更問題とならないのであって、主張の論拠の凡ては、満州国の存在という厳然たる既成の事実[#「既成の事実」に傍点]の裏に存するというのである。
 実際、満州帝国の存在が厳然たる眼前の事実である以上、たとい支那や諸外国が、之を公式に承認しまいとしても、それはただの観念的な空力みに過ぎないわけで、やがては満州に対して資本も投下したくなるし、通信関係も正式に結ばなければならなくなる。事実の前には一切の理屈は全く無力なのだ。列国の満州帝国承認は、列国のソヴェート・ロシア承認と同様に、恐らく単に時間の問題に過ぎないだろう、と一応云うべきだ。
 で世間の学者達は、日本のこうした強力外交[#「強力外交」に傍点]に特有な論理を、ヒョッとすると、ニーチェやソレルの哲学の内に求めようとするかも知れない。日本の最近のこの外交思想がファシズムの現われだと見るとすれば、それはムッソリーニの哲学と無縁ではないわけだが、ムッソリーニがニーチェとソレルとの間接の弟子であることは広く知られている。もし又ヒトラーにも哲学があるとすれば、フィヒテなどがその拠り処になっているわけで、フィヒテも亦一種の哲学的行動主義者であった。
 だがこの力の哲学による解釈は、実はわが日本帝国の数年来の外交論理を必ずしも正確に説明しているものではない、ということを注意したい。日本が満州帝国の承認を強要する理論的根拠は、先にも云った通り、事実[#「事実」に傍点]の前には論理
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